笑点なつかし版も録画しておくといいことがある。
つい先日も、若き日の昇太師匠(大喜利メンバー入りの前だ)が、名作「ストレスの海」で登場していたので保存した。
12月には先代の桂三木助が演芸コーナーに出ていた。
1998年2月1日放送とテロップが入る。
自死は2001年正月だから、この3年後だ。
この笑点が地上波でオンエアされた前年には、芸術祭優秀賞も獲っている。
一見順風満帆であったようだが、この頃にはすでに奇行が目立っていたらしい。
子供の頃からTVの落語を聴いて育っている私だが、先代三木助については、かなり売れていたTVタレントとしての記憶しかない。
TVで落語を聴いたこともあるはずだが。印象は残っていない。
後世に音源が大量に残るほどの芸人だったわけでもないから、その死とともに過去は忘れられていく。
だが、それが突然よみがえったのだ。私より年配の人で、番組を視て同じ印象を持った人も多いのではないだろうか。
9分の時間で、「看板のピン」を掛けていた三木助。
これが、明るく楽しい、実にいい高座。
部分的にはかっちりしていて、しかし全体には余裕のある緩い芸。高座を本人が俯瞰して眺めているような。
若手がこの噺を掛けたときの、聴いて息苦しくなるようなシーンはない。
昔も今も人気演目だが、とんとーんと運ぶことが求められる。
朴訥な語りではなかなかやりづらい噺。じっくり進めて面白いのは、三木助の師匠でもある先代小さんぐらいのものではないか。
テンポが快調だと、親分の貫録は損なわれるかもしれない。だが、失われる貫禄を上回る高揚感が湧いてくる。
ふうん、結構上手い人だったのだなと思う。「名人」の評価の物差しとは違うけども、寄席のバラエティ化には間違いなく貢献する芸である。
三木助の死について記した、吉川潮「わが愛しの芸人たち」は私も読んだ。
これが三木助のほぼ唯一の評伝となり、後世に残されていく。なにしろ、Wikipediaの記載だってこの本がベース。
吉川先生が注いだ愛情の度合いとは関係なく、「ろくに修業もしないボンボンが、勝手に自滅していった」という記録だけが残っていく。
「修業しなかったから精神面が鍛えられなかった」なんて、本に書いてあってもいいけど、百科事典であるウィキに載っているのはどうなのか。
まあ、ほとんどの芸人については何も残らないもの。記録と記憶に残るだけ、悪いことではないかもしれない。
先代の四代目三木助は、1957年生まれ。入門は1977年。
年齢でいうと、柳家一九、橘家蔵之助、柳家福治といった人たちと同じ。
入門でいうと、古今亭菊丸、林家錦平、橘家半蔵、古今亭菊春といった人たちが同期。
まわりにいたのは、実力はともかくみな地味な噺家ではある。三木助が近い世代とは相容れなかったであろうことは容易に想像がつく。
タレント性のある噺家を下の世代まで探して、3年後の入門者に、当代三遊亭圓歌、林家正蔵といった人がようやく目につくぐらい。芸協も含め、非常に地味な世代の異分子。
生きていたら三木助も、すっかりお爺さん。
小さん一門では、柳家小ゑん師が2年先輩。1985年に三木助と一緒に真打になっている(二人とも早い)が、小ゑん師が先代三木助のことを語っている姿は、私は見たことがない。
小ゑん師は修業時代の思い出を、繰り返し面白おかしく語る人。だが、やはり三木助については、修業をまともにこなしていない人だという認識なのだろうか。
先代三木助のWikipedia、以前の版にこんなことが書いてあった。覚えていたので古いものを探してきた。
<公私両面で付き合いが深かった小朝は「彼はご褒美(大師匠や先輩からの賛辞)をすぐ欲しがる世代だった」と語り、「三木助の噺は巧かった」と彼の死後に評価した先輩落語家へ「何で生きている時に誉めてやらなかったんだ!」と心から憤っていたという。>
出典が不明確だから消されたであろう文言を引用するのは気が引けるけども。
それはそうと、現在のゆとり世代に対する評価とその反論みたいだ。三木助もまた、数のやたら多い団塊世代から見た若造だったということだな。
上の世代の評価なんてこの程度のものだから、本当のゆとり世代ももっと自信を持つといいよ。
しかし、生きていたら落語のほうはどうだったろう。これは想像もつかない。
風格が身に付かず、芝浜が上手くいかずにイマイチの評価をされていただろうか。
それとも、古典落語を洒脱に、軽く語る人になっていただろうか。
あるいは、新たな味を見つけて大化けしていただろうか。