あかね噺、先月8~12巻をまとめて買った。
やっと10巻を昨日読みました。ゆっくりゆっくり、連載に追いついてきた。
最新刊は14巻。
前座の大会が続いていながら、ちょっとダレ場が続いた感があった。
勝ち負けに全力を注ぐジャンプの鉄則と、現実の落語の意外なぐらいの地味さとに、ズレが生じていたようである。
だから大会が終わったら、逆に面白くなってきた。
今昔亭ちょう朝師匠の、偶数の目しかないイカサマサイコロとか。
この人、トリなのに楽屋のサイコロで決めた看板のピンを掛けている。
実に軽い話だが、そのことは別にいい。小さな演目でトリで沸かせたら一人前だ、なんて指標も業界にはあるのだ。誰もやらないが。
もっと気になったことが。
トリの30分の時間で、マクラをたいして振らない看板のピンでは、ヘタすると10分で終わっちゃうけど。
どんなにいい演目でも、金返せになりかねない。
前座3人の会をらくご喫茶で始めるあかね。
久々のらくご喫茶登場。現実のらくごカフェと、内装は瓜二つである。
大会で勝ち抜くより、自分の会をいっぱいにするほうがテーマとしては面白いのであった。現実の二ツ目さんたちが悩むところ。
一之輔師など、会のハコを大きくしていったら徐々に客も増えてきたそうで。
前座の会は告知できないという縛りがある。
まあ、そのわりには東京かわら版に載ってる会もあるのだけれど。でも、円楽党と立川流が多いかな。
私は前座の勉強会に行ったのは一度だけ。三遊亭東村山さんの会の第1回である。
この会に関しては確かに、かわら版には出ていなかった。たまたまプークで聴いたので、行ってみたのだ。SNSには出てた。
今後も前座の会、機会があれば行くかもしれない。
ただ、寄席や落語会で出逢う偶然性が楽しいのだとは思っている。つまり、選ぶのではなく向こうからやってくるのが前座。
なにか面白いことをやらなきゃと、たぬきの着ぐるみで高座に上がるあかね。
元ネタは三遊亭白鳥師か? パンダの扮装で高座上がったんじゃなかったっけ。そして叱られる。
さて読んだばかりの10巻のレビューをする気になったのは、あかねの兄弟子、こぐまの高座。
ついに「擬宝珠」が登場した。柳家喬太郎師の復刻落語。
連載当時、おかげで私のブログに多くの流入があったのだ。
あかね噺の世界には喬太郎師はいないので、初代三遊亭圓遊の作った擬宝珠は埋もれたままだったのである。
マンガには描かれていないが、若旦那と幼馴染の熊さんを設定したのは喬太郎師だそうで。元の噺では、熊さんでなくて幇間だったという。
熊さんにしたのは崇徳院の影響だろうが、ともかくこれにより噺は劇的な進化を見せた。
物語の中では、オタク気質のこぐまが文献から掘り出してきたわけだ。喬太郎師の仕事をしたわけである。
そのこぐま、楽屋では自分の世界にこもっている男。小さいころから本ばかり読んでいる。
その男が高座で弾ける。
これに、昨日書いたばかりの彦いち師の話がシンクロしたのだった。
噺家の内面は、一朝一夕には作れない。幼少から詰め込んだ感性の積み重ねでできあがっているということ。
これは、擬宝珠を復刻した喬太郎師だってそう。
噺家の世界、幼少のころから落語オタクだった三三師のような人もいるが、いっぽうでいきなり落語を知ってハマり、飛び込んでくる人も多い。
後者は前者に比べて多少はハンデがあるが、といっても前座時代、楽屋でネタ帳を書くのがやや困難というぐらい。
いきなり飛び込んできた人にも、多くの有望株がいるのである。
オチケンで落語に出逢ったというのはまだ古いほう。社会人になって、まったく無縁のこの業界に飛び込む人も多い。
とはいえ、成功するのは落語以外の要素で内面を積み上げてきた人ばかり。
幼少期から積み上げた内面がカラッポの人は、到底成功しない。
このことはなんとなくわかっていたが、この2日間で完全に腑に落ちた気がする。
志らく師が、「最近の若手はみんなお笑い界に取られてロクなのがいない」と言うのが、いかに陳腐な認識か、改めて思った。
お笑い界で激戦を勝ち抜き、キラキラしている芸人の外面しか見ていないということだ。
こんなボーっとしてて大丈夫かな、と思う前座の中に、内面が充実し、機会を得て外に出ようとしている人がいるわけだ。
あかねのすぐ上の兄弟子、ぐりこはあかねに負けていられないと大阪で修業のやり直し。
昭和元禄落語心中も、上方落語をちょいとスパイスに加えていた。世界が広がることは間違いない。
しかし、上方で修業した東京の落語家って、快楽亭ブラック、三遊亭丈二のふたりしか知らない。
たまに丈二師から、彦八まつりのマクラなど聴いた。
上方修業も役には立つでしょう。
ただ現在の丈二師、才能あふれる噺家なのに、自分の会もやらないし、活動が少なすぎる。
あかねの始めたらくご動物園は妙な人気を博す。
ただ、現実離れしてる気はする。
落語の世界、初心者ほどいち早く、通ぶりたくなるんじゃないですかね?
初心者向けの企画というもの、すぐに抜け出して、ディープな世界に入り込みたがるのではないか。
古典の本格派を聴くだけでなく、新作にどっぷり浸かるのも同じこと。
私が「Z落語」というものに冷淡なのはそのせいである。
11巻はネタ切れのときに。