落語のちょっとした謎について書いてみます。
まとまりきっていないが、書くことで膨らんで、またいろいろ思いついて、そして続編もできる。そんなパターンを今回も狙っている。
落語は芝居の一種であるとされているが、芝居にはない技法もある。
会話がなされているのに、相手のセリフが省略されていることがしばしばある。
ちりとてちんにおいて、隠居と女中(お清)の会話なんてそうだ。
隠居が「豆腐がありますウ? おいおい、豆腐なんてずいぶん前に出たきりじゃないか」。
最初の「豆腐があります」は女中がそう言ってる(省略される)のを、隠居が繰り返しているわけだ。
最近続けて聴いた「甲府い」だと、親方が娘のお花の「善吉さんにとっておじさんなら、私にもおじさんだ」を自ら語っている。
時そばの「太いねえ。うどんじゃねえのかい? そばですウ」なんてのも典型例。
たぬきにもよく入っている。「見てられると化けにくい?」とか。
こういう、会話の相手のセリフを、別の登場人物が引っ張ってしまうことが落語には多い。
舞台の上の芝居には、基本こんなのはない。相手、そこにいるからね。
よく考えたら、落語「寝床」で、旦那が「節がつくだけ情けない? 誰だ今言ったやつは」なんてのは、芝居でも同じことにはなる可能性がある。
ただ、やはり1人で演じるスタイルならではの技法だと思う。
芝居だと、舞台にアナウンスだけ入れてしまえば成立するからして。
講談や浪曲には、普通にある。理由は落語と同じ。
この技法の名前、ないのかな。
当たり前すぎて、誰も付けなかったのだろうか。
便宜上、「引っ張り」とでもしておこうか。
ちなみに、おおむねこういう引っ張りセリフは下手(しもて)を向いた人が発する。目上の人物である。
先のちりとてちんであれば、隠居が下手を向いたまま、セリフを完結する。カミシモを振るのを省略しているわけだ。
というわけで、用語として「しもしも」なんてどうか。
言ってみたかっただけです。
引っ張りセリフの目的はいろいろ考えられる。
- セリフのある登場人物を限定することで混乱を防ぐ
- 重要でない登場人物の存在だけ浮かび上がらせる
- 説明として入るセリフからカミシモを抜くことで、進行を軽やかにする
こんなことであろうか。
女中のお清は、個性を与えられたキャラではない。
隠居のお世話をしていて、台所を預かっていることがわかればいいだけだ。
たまに女中が喋る演出を聴くが、結構違和感満載。
女中は、その場にいるだけのほうがいいみたい。
とはいえ女中だって、たとえば「蔵丁稚」(東京では、四段目)で、定吉が蔵の中で腹を切ろうとしているのを見つけて慌て、「蔵吉どんが、さだの中で」なんて旦那に申し上げている。必要があれば、別にいいのだ。
ちなみに、どうせセリフがあるならクスグリにする発想が極めて落語っぽい。
「妾馬」でも八っつぁんの妹、おつるの方さまが口を開かないのが通常だが、これはこれで現代視点からは違和感を覚えたりして。
男尊女卑が、女が喋らない理由になっていると思われる噺も中にはある。まあ、一部だろうけど。
柳亭こみち師がこのあたりに敏感だと思う。
崇徳院では、お嬢さまは最初から口を利かないどころか直接描写がない。それで、こちらを主人公にした裏の物語を作るわけだ。
ただこみち師も、男のセリフを女が引っ張ったりはしないと思う。
この引っ張りセリフ、最も上手いなと思うのが柳家喬太郎師である。
師は落語の約束ごとそのものからギャグを作り上げてしまう人。
私が技法に着目したのも、喬太郎師からなのである。
禁酒番屋において、大酒飲みの近藤さまは、酒屋の番頭に語りかける。
この番頭は別に、存在の薄い登場人物ではない。
近藤さまは、酒の持ち込みが禁じられた屋敷に、寝酒を届けてほしいと無理難題。
この際、引っ張り技法を使っている。番頭のセリフを先取りし、「そうか、持ってきてくれるか」とひとりでうなずいている。
番号が「あたしまだなんにも言ってないですけどね」。
相手が言ってないことをセリフにしてしまう、画期的なやり方。
露骨なギャグではなく、もう少しちゃんとしたやり方でも感心したことがある。喬太郎師の「夢の酒」。
若おかみのお花は、若旦那の不埒な夢を大旦那に訴える。
この際、若旦那自らが語った夢の内容を、お花が主観を含めて語り直すことが、ちょっとした笑いになる。
だが喬太郎師、大旦那のセリフでこの場面を語っていた。大旦那が、お花のセリフを引っ張りながら進むのである。
こんなやり方がなにをもたらすかというと、一足飛びに同じ夢がブレてしまう。
若旦那のちょっとした夢は、大旦那が語ることで穴だらけに再現され、欲望にまみれた非倫理的な行為に早変わりするわけだ。
今日は問題提起まで。
今後は技法に遭遇するたび、瞬時にいろいろ考えることになる。
そしてだんだん固まっていけばいい。
問題提起、ありがとうございます。
このようなところからも、喬太郎師の凄さが分かります。
ご感想ありがとうございます。
落語界、ごく普通の習慣については誰も疑問を提起しないなと思っております。
こういう部分に深入りするのが喬太郎師ですね。
立川吉笑さんなど、アンサーを作ってくれるかもしれないなと期待します。