思い出したので書くが、強情灸の「石川や浜の真砂は尽きるとも」の下の句は、「むべ山風を嵐といふらむ」だった。
石川違いじゃない。
喬太郎師も、大先輩の小満ん師と一緒だと多少の気負いもあるものでしょうか?
もう一席は新作かなと思ったら、仏壇叩きだった。聴きたかったので嬉しいですが。
この圓朝もの、生で聴くのは初めてなのだが、衛星劇場の高座のもようをアップしたらおかげさまでアクセスが非常に多い。それだけ最近師がよく掛けているということらしい。
検索での食い合いが心配なので、今日のタイトルには「名人長二」を入れてみた。
この続きもいずれおろすのでしょう。高座の最後には、この続きはいずれとそう語っている。
お若伊之助の続編作ったり、いろいろ忙しそうですが。
テレビの高座は、22分ぐらいで短かったのだ。
現場で聴いたものはもうちょっと長いはずだが、印象は変わらない。どこが伸びてるのだろうか?
ちなみに、私が観た放送は2022年の制作で、もうひとつ2023年の放送もあるらしい。そんなに仏壇ばかり叩いてどうする。
テレビでは釈台はなかった。
今回見台を、仏壇を叩くのに合わせ左手でバシバシ叩く。次から次へ新しい台の使い方を開発していく喬太郎師、カッコいい。
知っているものと明白に違ったのは出だし。
粗忽な小僧・三吉が、主人・坂倉屋助七の指示をちゃんと聞かずに駆け出していく。粗忽の小噺みたい。
なるほど、長二親方を怒らせて帰ってくる理由が十分ついている。もっとも長二のほうは、本気で腹を立てているわけでもないのだ。
アゴを上げて、長二親方とのやり取りを再現する三吉。冒頭からちょっとしたコミックリリーフだ。
「この噺には笑うところがない」ということで、仕上がった仏壇を音を立てて開く上方しぐさも入る。
そして長二親方の女性観でもって、「ここの半分を敵に回したぞ」も。
それだけでなくて、さらにふたつギャグが入っていた。
三道楽に一切興味のない長二に、坂倉屋が「まるで柳家喬太郎みたいだ」。
長二親方の道楽は、一生懸命働いているのに運悪く貧しきものたちへの施し。
闇バイトなんかに巻き込まれないようにしてやりたいんだそうだ。
これだけ入っていると、もはや「笑うところがない」なんて言えない気がするけれど。
でもまあ、確かに笑いはこの噺のテーマではない。
笑いなしにやることだってできるだろう。でも多少の緊張を解く要素が必要だと判断しているみたい。
たぶん、笑いがないと「怒りの噺」になってしまうからなのだろう。怒ってるのは坂倉屋だけで、超人長二は怒ってはいないが。
笑いは自体はテーマではなくても、ユーモアは濃厚。
坂倉屋が仏壇の値段「100両」を聞き、豹変するシーンは誰も笑ってはいない。それは私だってそうだが、よく考えたらなかなかユーモラスなシーンでもある。
坂倉屋は長二親方にきちんと要望を伝え、そして途中で催促することもなく行儀よく待つ。そして仕上がった仏壇を褒めまくる。
この人徳者としていったん描写された商人が、いきなりチンピラのごとく因縁をつけ出すのである。
これは喬太郎新作のノリではないか。
もしかするとだ。これは喬太郎師の壮大な実験なのかもしれない。
新作技法を濃厚に用いても、怒りの発露であれば客は笑わず、むしろ緊張する。
そして、チンピラとなって静かなる男を罵ることに、演者がなんらかの快を感じている。
いっぽう、長二のほうは、喬太郎師の噺の中では清廉潔白に描かれるのだが、ちょっと舞台を遠めに眺めてみれば、気取ったいけすかない野郎に映らないこともない。
そんな二人の、隠れユーモアたっぷりのやり取りを、緊迫感を持って客に見せようというのが喬太郎師の目論見では。
名人圓朝の噺を、自分だけがひそかに楽しんでいるそんなやり方で見せようという。
これはいささか趣味の悪い、うがった見方だろうか。
でも、まるで間違ってもいないと思うのだが。
一瞬チンピラになった坂倉屋は、渾身の力を込めて仏壇を叩きまくり、完全に打つのめされる。
長二が作り直すと言っているのに、傷だらけの仏壇を収めてくれ、私の醜い心を表したものだとそれはそれは態度を激変するのだ。
ここもまた、演者の楽しみなのではないかなと。
よこはま落語会、次に来るときは根拠のないマスク義務が名目としても撤廃されていますように。
会の内容はすばらしいものでした。
この3日間、最新記事がなかなか検索に掛からないなと思っていたが、設定に問題があったことがようやくわかった。
今日からはたぶん大丈夫。
お膳立てのできたブログで書くのと違って、自分でやるのはなかなか大変です。
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