口上が終わり、改めて前座のじゅうべえさんが出る。急に割り込んだ口上で、前座カットなのかと思ったが。
じゅうべえさんの写真を撮る客がいた。口上が終わったのでもうダメです、携帯も電源切ってくださいねと注意からやり直し。
亀戸にはかなり来ているが、じゅうべえさんは久々。ブログを遡って調べたら、2018年11月以来。
そのじゅうべえさん、最後に聴いてから1年強で、日本語のイントネーションがやたら上達していてびっくり。開演前のお膝送りの声掛けも、実に自然。
外国人力士なみの自然な日本語になっている。
力士は純粋に言葉で覚えるのだが、インテリは文字と一緒に言葉を覚えるから、どうしてもアクセントが不自然なまま残ってしまうのが普通。
でも徹底して噺家らしく日本語の音を学んでいるらしい。まだまだ上手くなるだろう。
そして、落語のほうも大幅な上達振り。まだ2017年あたりの下手な頃を知っているのでさらに驚く。
真田小僧に相当な工夫を入れている。似た演出は知らないから自分で考えたのだろう。
「20円はここまでです」で客、爆笑。
通貨単位を円でやるのは円楽党でよく見るが、これだと後半の六文銭までできないなと後で思った。後半をする場合は小遣いの単位も最初から替えるのかしら。
前座が工夫を入れると変な感じになったりすることもある。だが、この人がやると実に自然。
工夫はするが、それを直接「どうだ」「面白いだろう」と客にぶつける意識がまったくないからだと思う。
じゅうべえさんは、好楽師譲りでとにかく人を気持ちよくしたいという気持ちが強いのだ。
その欲のない結果として、場内一体になった見事な一席だった。
一例として、金坊がおとっつぁんに火を起こしてやるのだが、親父はタバコ吸わない。「なんだ、このうちでタバコ吸うのは俺だけか」。
そして、かなりシモがかった演出なのに、少しも嫌らしくない。
じゅうべえさん、まだ世間からは青い目の噺家という珍しさで見られているかもしれないが、今後落語のファンがついていくに違いない。
所属団体を問わず、ウケを狙いたくて仕方ない前座は、じゅうべえさんを見習うべきだと思うね。見習う機会はそうそうないだろうけど。
メクリを「好二郎」ではなく、「兼好」に替えて去っていくじゅうべえさん。
客にどよめき。本当に「さんげさんげ」の出囃子が流れてきて、兼好師の登場。
好二郎は、クイツキ(仲入り後)で出ますのでと。
前座の頃は、メクリをひっくり返したり、座布団ひっくり返したり、楽屋でお茶ひっくり返したり忙しい。
二ツ目になると仕事から解放されるのだが、今度はちょっと仕事がしたくなったりするのです。
用もないのに、楽屋でネタ帳などいろいろひっくり返したりしてみたりなんかしてと。
二ツ目になると、貧乏になるんです。前座は落語会に必要なので、どこにでも呼ばれます。飯を食うには困りません。
二ツ目は、真打ほどは面白くなくて、前座ほどは仕事はしないんです。呼ばれなくて当然でしょだって。
今日は黒紋付を着て、間違いなくウケる感じです。このようなときにウケないと困るんです。
袖にいるらしい好二郎さんに向かって、ハードル上げてやったぞと声を掛ける兼好師。
そして黄金(きん)の大黒。
これは一目上がりなどと同様、めでたい席で出す噺。めでたい噺で弟子の門出を祝う師匠。
他団体でもそうなのだが、特に円楽党、披露目の際に忠実にめでたい噺をセレクトする傾向が強いように思う。
正直、めでたいだけの印象もある噺だが、兼好師がやると爆笑なのであった。
この噺、しるし半纏を羽織と思い込んでいたり、火事場で拾ってきた羽織を3枚つないでいたり、1枚しかない羽織を順に交換していたりする、ベースの面白さは濃厚にある。だが、ベースの面白さを丁寧にすくっても、別にそれ以上には面白くならないらしい。
どうやら、羽織などふだんなじみのない部分に引っ張られ、客の気が削がれるようだ。落語を演ずるにあたっての、いかにもな方法論はそれほど役に立たないらしい。
ではどうするか。兼好師らしく、一瞬の会話のやりとりの妙で笑わせるのである。
要は、長屋を舞台にした漫才にするのだ。
そして長屋の連中自体は、江戸落語のワイガヤに似つかわしく、没個性。個々の個性は押さえ、しかし全体を躁病っぽく描く。
「次誰が行く?」「ハイ(手を挙げる)」などとやって。
どうやら、この噺にはこれが正解らしい。
過去聴いた黄金の大黒の最高峰でありました。
兼好師の秘訣の一端がまたわかった気がする。「噺に頼らない」とでもいいましょうか。
もっとも、まったく初めてでもなかった。私の整理の悪いVTRコレクションに黄金の大黒があった。
2013年の、柳家喬太郎の芸賓館である。
この頃すでに完成していて、クスグリまでほぼ同じであった。
だが極めて軽いので、いい意味で記憶に残っていない。