落語の地噺(じばなし)にも種類がある

毎年12月は、当ブログのアクセス数がボコッと2割方低下する。2022、2023に続き2024年もそうだった。
暮れは落語のことなんて世間では忘れていて、正月になると思い出すのだった。私は12月の落語が一番好きです。
1月はおかげさまで好調です。このまま11月までがんばったら、12月は休んじゃおうかな。
好調なのに、提供するネタがない。今春は、落語のニュースもなぜかごく少ない気がする。
今日は、3日に聴いた桂文治師の「源平盛衰記」をヒントに、地噺を取り上げます。

落語というものは、物語から演者が消えてしまうのが特徴のひとつ。
噺は、会話で成り立っている。講談や浪曲と比較すると、この特徴は明らか。
わずかに残った演者自身のセリフも、極力減らしていく方向性がある。
だが、演者自身がいつまでも消えないこともある。このケース。

  • 漫談
  • 地噺
  • 脱線

漫談は、演者自身の出来事を語るので当然。
地噺は、基本的には「演者自身のセリフが必要不可欠とされている噺」のはず。ストーリーを持った落語の一種なのだけども、会話だけでは成り立ち得ない噺。
ただ、これにも種類があるなと思っている。地噺というまとめは、実は噺の特徴を無視しているかもしれない。
演者自身のセリフが登場する理由は、噺によって異なっているというのが私の観察。

最後の「脱線」とは?
最近、妙に目に付くようになってきた気がする。地噺でない噺で脱線して、自分自身の出来事を語るやり方があるのである。
マクラを本編中に入れ子にしたようなもの。
手法自体は、明らかに地噺に原典があるものだ。
噺の進化の方向からすると、最近増えたとしても当然に思う。

昔はそもそも演者自身の話題を振ることがなかった。徐々にマクラが拡大し、漫談が増えてきたという歴史がある。
その流れからして、地噺でない一般の噺で脱線して自分のことを語るのは不思議なことではない。
最近では、橘家圓太郎師が長講の際によく脱線している印象だ。黄金餅や、甲府いなどで、楽しい脱線を聴いた。
三遊亭兼好師も、三年目の途中で自分の家庭の噺を振っていた。

マクラはもともと、本編と関連するものを振る。
逆に脱線は、本編から思いついた日常を語るわけだ。極めて自然だと思うし、そしてしばらく脱線続けたあと本編に戻るとそれだけで笑いが起きるから便利。
ますます増えていくでしょう。これも広義の地噺手法といえる。

文治師は、今回掛けた源平盛衰記と、お血脈をお持ちだ。他にもあるかもしれないが、この二つの噺には共通項がある。
本筋と、脱線した漫談とを二重写しで見せる噺。
昔の芸人など脱線をふくらまして、それから本編に戻るだけで笑いになる。
本編は本編で、ちゃんとストーリーがつながっていて楽しい噺になっている。

だが、これらを地噺と考えたとき、ぜんぜん違うスタイルも地噺というよなあと。
目黒のさんまであり、たがやであり、紀州。荒茶もか。
これらの噺は、別段脱線がメインではない。
ただ、説明が多いだけなのだ。釈ネタの多くも、どうしても説明が多くなる。
説明が不可欠な噺は、どこかで普通の噺のような会話で成り立たせることを放棄してしまい、その結果異なる進化を歩むらしい。
たがやは、演者の説明全部排除して、普通の噺にできる気がする。でも、「やりっぱなし」とかギャグを入れる噺として固定化されているのだろう。
岸柳島(巌流島)という噺も、説明視点が多い。でも、地噺化する誘惑に駆られず、普通の噺に進化したのではないか。たがやもできる気はするが。

これらと、源平盛衰記やお血脈は、元来種類が違うのでないかという気がする。
具体的には、「脱線と復旧」を笑いの要素として重要視するか、しないかではないか。
しかし恐らく、演者の視点からは同一の水平線にあるらしい。「通常の噺ではない」という点において。
取り組む魅力と怖さ(普通の噺がやりづらくなる)も共通しているらしい。

新作で地噺も成り立つが、なにがあったかな。
林家彦いち師の「長島の満月」は地噺かもしれない。漫談ではないだろう。
新作レジェンドの三遊亭円丈作では、「肥辰一代記」「悲しみは埼玉に向けて」などが地噺でしょう。

今日は、だからなんだという話になってしまいました。

作成者: でっち定吉

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