14巻まで出ているあかね噺、ついに13巻まで追いつきました。
ネタ不足で、買っておいたマンガに頼る次第。
さて、13巻はあかねの兄弟子、まいけるの真打昇進試験。
私の最も嫌いなエピソードだ。なにが真打昇進試験じゃ、と怒り気味に。
真打昇進試験は、このマンガを貫くテーマだ。根本的なテーマに今さら怒ったって仕方ないのだが。
そもそもあかね噺、1巻の酷評からレビューが始まったのも、この根本的なテーマに問題があると思うからだ。
「阿良川流の真打になる」のがテーマだなんて、いまだに気に入らない。
落語界に詳しくない新しいファンは、「阿良川流は真打昇進基準が厳しくて素晴らしい!」と思いますでしょうか。
しかし阿良川流がモデルにしている立川流は、真打昇進付近の若手で判断したとき、すでに他の協会団体と比べてなんだかなという存在に成り下がってきてしまった。
最近真打を決めた立川吉笑さんなど、別格の才人もいるけども、騙されてはいけない。
結局理念で真打昇進基準を厳しくしても、なにも得られなかったのだ。
さすがにそこまで言うと立川流四天王等の活躍した歴史の全否定で、言い過ぎかもしれない。それでも、なにかが得られた時期はすでに通り過ぎてしまっている。
人には、真打昇進の判断なんてできない。心底そう思う。
芸人自身にだって判断できないのだ。個性の異なる噺家の評価はなかなか難しい。
「人気」で判断したほうが、ずっと妥当だ。
真打の抜擢まで否定するわけではないけども、抜擢されたから実力が折り紙付きということもなく。
立川流の家元である談志は、実は最初から「自分の基準」というものを前面に押し出していた。一般的評価を元に真打を決めていたわけではない。
実力が十分認められていた生志師も、談志に評価されず真打になるまで20年掛かっている。
談志がいなくなった現在の立川流は、トライアルを受ける人もいるが、それでもなんとなく総意を得て昇進する組織になってしまった。
年功序列真打は、最初から実力の評価をしなくていい点で、実に健康的である。
これにより、実力のまったく伴わない真打が粗製乱造されるデメリットは確かにある。だが、そんな真打の活躍場所はどこにもないので、世間の目にはあまり触れない。
だからベストとはいえないにせよ、悪い方法ではないのだ。
落語をしてないくせにペーパー真打になった三遊亭一太郎には腹が立つが、一太郎のために年功序列を否定することまではできない。
このあたり、いつも書いてることの繰り返しになる。
年功序列の真打が続いているから形骸化しているのか、そんなことはまるでない。上方落語界がなんとか真打の披露目の要素を取り入れたいと腐心しているのを見れば明らか。
上方落語界は、真打的なものがないと、襲名披露をやるしか盛り上げる手立てがないのだ。でも名前が無限にあるわけでもなくて。
たまに抜擢はあるものの、しばらく落語協会も芸術協会も年功序列で真打を作っていた。
なにせ真打昇進を巡って、元落語協会会長の圓生が脱退し、立川流ができ、と落語界を分裂させてきた黒歴史の根源こそ、真打昇進試験。
試験があったらいいというものではない。
今や押しも押されぬビッグネームの林家正蔵師だって、試験に受かって抜擢されたわけだが、当初はファンからずっと疑問を持たれていたわけで。
ちなみに抜擢ですら、年功序列真打の維持という点において嫌がる人もいたのだ。
元芸術協会会長の桂歌丸師は、噺家相互に遺恨を残す抜擢に反対していた。歌丸会長が亡くなって、伯山・宮治が抜擢されたのだ。
現在、強硬な抜擢反対派はいないと思うのだが、しかし抜かされて心に傷を負う人が多数いるのもまた事実。
平和な年功序列がスタンダードである中、自分の弟子の昇進に勝手に異を唱えたのが、春雨や雷蔵師。
弟子の風子さん(現・雲龍亭雨花)の昇進を勝手に2年遅らせ、何の説明もしない。
だいたい、あかね噺の監修している林家けい木さんが、今春年功序列で真打(改名して「木久彦」)になるのだものな。
けい木さんは十分活躍している人だと思うが。やはり抜かされ組でもある。
あかね噺と関係ないことをつらつら書き連ねてしまった。
そういうわけで、13巻はあまり楽しめなかったのだった。
とはいえ、個々のエピソードとしては面白い部分もあった。それはいずれ書きます。