「真打ち」がいない上方落語、若手の実力認定の取り組み…桂三枝会長時代には模索したが実現せず(読売新聞)
わからないニュースである。
上方落語界が、東京の真打制度を日ごろからうらやましく眺めていることは理解している。
真打は明確な区切りであって、披露目をしてもらえる。パーティを開く人も多い。
どんな噺家であっても、生涯において一度は輝くことができるのだ。応援しているお客のためのものでもある。
その後出番がほとんどないことが、昇進時においてすでに明らかな人もいるわけだけども。そんな人でも披露目をしてもらえる。
真打制度のない上方落語界では、代わりのイベントが求められる。それが襲名披露。
もっとも名前がないと襲名だってできない。噺家が増える一方であれば、名前もそうそうないのだけど。まさか「改名披露」なんてみっともなくてできないし。
そんなわけで真打に対する上方落語界の渇望はわかる。
そして事実上、NHK新人落語大賞の出場要件に「15年」の区切りがあるのを見てもわかるが、ないはずの真打が基準になっている実態もあり。
今回の認定制度の目的も結局、披露目をしたいということのようだ。
そして、桂二葉さんが具体的なターゲットでは。
他には、笑福亭生寿、桂小鯛、桂そうば、桂慶治朗など近年の受賞者たち。
ところで記事にはこうある。
§
技量の高い若手噺家を認定する取り組みを新たに始める。江戸落語の「真打ち」に近い“上方版真打ち”ともいえる
§
新聞社は「真打ち」と書くことが多いが、「真打」のほうがメジャーな表記。
だが、江戸落語の真打は、いろいろあって実力の証ではなくなっている。だから「上方版真打」と言っても、まるで違うものになるわけだが?
そんなものが機能するのかな?
そしてむしろ、認定されない人の処遇が私など気になるのだけど。
優秀な噺家を認定するということは、逆にされない人は「お前はダメ」と烙印を押されたことになる。
これはキツい。
もちろん、東京だって先に述べた通り名ばかり師匠がたくさんいる。
香盤に名前があっても、なにしてるんだかわからない人も多い。本業が別にあるのだろう。
それでもそんな人も、「師匠」というフィクションに包まれて生きているのである。
認定されない上方落語家は、フィクションで語ることもできなくなるわけだ。
現在の東京の真打制度は、紆余曲折あって年功序列になったもの。
春雨や雷蔵師みたいに、年功序列にのっかって弟子を真打にさせることをヨシとしない変人もいるけれど。
だが、制度自体はこれで悪くないと思っている。
一から制度構築するようなものともいえないけども。
上方落語界で実際に認定制度を運用してみたら、結局こうなったりして。
- 数年の差はあるものの、結局おおむね認定される
- 気が付くと「おおむね15年で認定」というローテーションになる
- 「次はうちの弟子を認定しろ」と内輪もめ
- 認定されてないヤツが弟子を採るなと言われる
- 弟子を認定してもらえない師匠が怒って上方落語協会を脱退
ありそうだなあ。歴史は繰り返す。
もともと上方落語のほうが、悪平等の危険が高いのだ。
天満天神繁昌亭の顔付けが、あまりにも平等すぎて一部から不満が出ている前提もあるのである。
桂文鹿師なんて、協会を脱退している。
もともと重鎮の桂南光師が協会を抜けたままでいるように、上方落語界もいつでも分裂する危険があるのである。
東京の場合は席亭が顔付けするので、高座に上げたくないと思われれば出番がない。テレビで名前が売れている林家三平師匠だって、浅草以外にはそうそう呼ばれない。
繫昌亭、徐々に人気を加味した顔付けにしようとしていたらしいのだが、そこでコロナになった。その後どうなったのかよくわからない。
そしてもうひとつ根本的な問題。
実力を人間が判断することは、とても難しいというのがある。
東京の寄席の席亭はそれをやってるわけだが、自己責任で客を呼んでいるのだから非難はされない。
だが協会自身が実力を判定しようとすると、揉めること必至なのだった。
なんであのヘタクソが認定されて、こっちがダメなんだと。真打試験なんてやりだすともう、カオスの極み。
大会の実績で決めたほうが、納得いきやすいというのはあるだろう。
師匠の力関係もある。
今回落語協会は二人抜擢だけども、柳家花緑師にもっと力があったら、二ツ目の大会二冠の吉緑さんは一緒に抜擢されたんじゃなかろうか。
抜擢はニュースになっていいのだけど、抜かれたほうには屈辱の歴史にもなり。
ともかく、今後のニュースを注視していきましょう。
(続編です)
上方落語界は真打議論の前に「成人式」
「真打」はスタートライン。ここからやっと噺家としてやっていけると考えれば前座4年二つ目10年の準備期間は上方落語にもあったほうがいいのかな?とは素人目には見えますが、いままで無かったシステムを導入するのは軋轢が強そう。
そこから売れっ子は全国を飛び回るし、一芸を極めたい人はひたすら自分を磨けばいいし、つまんない奴は消えていくし。
ただ東西が別システムというのも師匠と揉めた若手が生きていくのにはありかな?とも思います。もちろん努力・能力が相当に伴わないと厳しいでしょうが。
「あの場合はしょうがなかった」もあるでしょうし。
いらっしゃいませ。
さらに考えましたが、結局東京においては、今までどおり「15年以上の上方落語家」を師匠として扱うだけだと思います。
認定されない噺家はどのみち呼ばないので、いないものと一緒という扱いになるのかなと。
せめて大阪周辺において、披露目が盛り上がるといいんですが、どうでしょう。
江戸落語の場合は真打があるので真打に昇進したら師匠と呼ぶことができますが上方落語の場合はどのタイミングで師匠と呼べばいいんでしょうか?
弟子を持ったら師匠と呼ぶのも考えたのですが弟子を取らない主義のベテランの落語家の方も中にはいますし難しいですよね
いらっしゃいませ。
師匠問題は私も悩みますね。
先日、月亭太遊という人を聴きましたが、15年やってません。
悩んで師匠にしました。
桂二葉さんも、いつから師匠にしたらいいんでしょう。もうしていいのでしょうか。
月亭方正の場合、すでに弟子取ってますからこれは師匠です。
わからないときは、15年を一応の区切りにはします。
真打認定?制度、人間が決める以上、本当に難しいものがあります。
談志が落協を脱退して立川流を興したのも、真打認定試験が原因ですよね。
現在、落語の団体は四つあります。以前ほど対立はしていないようで、交流も増えてきつつあります。
でっち定吉さんには、そのあたりを踏まえたブログを書いてほしいと思っています。
がんばります、としか申し上げられませんが。。
ちなみに立川流では、二ツ目のまま長年据え置かれている志のぽんさんが気になります。
二度しか聴いてませんが、私は好きなタイプですね。
お久しぶりです……といっても以前一度コメントさせていただいただけですが。
上方にも以前は真打制度があった、にも関わらず消滅して、その後復活することがなかったというのは、やはり存在意義よりも副作用の方が大きいという判断がなされてきたからでしょう。繁昌亭大賞などの別の評価制度もちゃんとあるんですから、今更こんな身分的制度を作るのは蛇足かなと思います。
いらっしゃいませ。
「真打」だと身分になって、おっしゃるような弊害が生じることがわかっているので認定制度にするのかなと思っています。
結局は、披露目ができればいいのでしょう。
米朝・松鶴・枝雀・仁鶴の襲名だけでは、到底追いつきませんからね。
疑似身分制度みたいなものはどうかと思いますが、披露目をやりたいところだけは共感もしておりまして。
興行は、襲名&追善と見つけたりという格言(?)もよく言われることですしね。