落語についていろいろ考える

落語というのは懐の広い演芸である。
横丁のご隠居と、八っつぁんの他愛のない会話も落語。
恩返しに来た狸がサイコロやお札に化けるのも落語。
忘れた道具を取りに、もう一度大蛇に呑み込んでくれと頼むのも落語。
落とした金を拾いに船から海に降りたあと、唐突に龍宮城に行ってしまうのも落語。
体じゅうの臓器が会話をはじめ、ついには敵味方に別れて決闘するのも落語。
(最後のは、三遊亭白鳥師匠の「新・あたま山」です)

日常の世界をちょっといじってやると落語になる。
おかしな人物を登場させたり、おかしな事象を発生させたりで一本の落語ができあがる。
いじる程度はさまざまだが。
そしてまた、古典落語と新作落語はシームレスにつながっていて、根本的な違いはない。
少なくとも私はそう思っていて、両方を区別しすぎるのは好きじゃない。
白鳥師匠の落語も設定がぶっ飛んでいるものの、いっぽうで磨き抜かれた古典落語と同様、登場人物どうしの会話を非常に大切にしている。

江戸の落語と上方落語も、あまり区別したくない。
確かにそれぞれの特徴はある。登場人物も、喜六と与太郎ではかなり性格が違う。
しかし、「おはなし」である点は同じである。リズムやテンポが大事な点もしかり。

では、漫談はどうだろう。
漫談家の漫談ではなく、噺家さんが寄席でやる漫談である。
これも、雑談ではなく「おはなし」として成立しているのならば落語だと思う。
「中沢家の人々」も「会長への道」も「ガーコン」も「B型人間」も落語である。

結局、「おはなし」は落語なのだと思っている。
そして「落語」であるならば、趣味としてではあるがなにかしら語れると思う。

ただ、そうすると「講談」は?
講談は、まさに「おはなし」だ。軍記ものであったり、仇討ものであったり。
リズムもテンポも、このうえなく大事だ。笑いだってしっかり入る。
落語の寄席にも色物として講談が入るけど、講談単独の席に出向いたことありますか?
講談だけ続けて聞いていても、かなり面白いものである。
違うのは、扱う話についての前知識が乏しいことくらい。これは聴く側の勉強の問題だ。
極めて乱暴な意見だけど、「講談」もまた、私の中では落語の一種なのである。
講談師の皆さまには申しわけないですが。
神田松之丞が聴きたいなあ。

作成者: でっち定吉

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