先代、五代目柳家小さん師のことも書く。
私の幼少の頃のイメージというと、なんといっても永谷園、あさげひるげゆうげ。
「旨いね、これでインスタントかい」
CMイメージはさておき、落語といえば小さん師だというイメージも、私の中に刷り込まれている。
「長屋の花見」や「粗忽長屋」は、TVでずいぶん聴いた気がする。これこそ落語のスタンダードだと。
しかし、今になって聴き返してみると、この師匠の噺、実態としてちっともスタンダードではない。
どうしてこれだけ、陰気にみえる落語が、子ども心に響いたのか。
決してわかりやすい落語でもない。
今聴いてもその素晴らしさは疑うべくもないのだが、「発見済みの素晴らしさを再発見する」という、まったくもって不思議な楽しみがある。
「粗忽長屋」など、おかげで噺としては基本中の基本だと思い込んでいた。
大人になって振り返ると、こんな難しい噺はそうそうないと思う。こういうのをTVの短い時間でさらっとやっていたのである。
落語のつまらないマクラを変えてみたいと思いついて、このブログでも載せてみた。
そのうち、つまらないクスグリやサゲも新しいものを作ってみたいと思っている。
だが小さん師の前にあっては、そのような改編など、本質的には無意味だとも思う。
この師匠が語れば、一見つまらないマクラにも、ちゃんと命が吹き込まれる。
大事なことは即物的にウケさせようとすることではなくて、しっかりと人間を作り込むことだから。
ほとんどの噺家さんは、ウケなければ不安になると思う。
でも、ギャグで笑わせにいって滑ると、客のほうもいたたまれなくなる。
小さん師匠のように、少々のことでは動じない胆力を持てればいい。そして人間をきっちり描く。
ギャグなど抜きにして、噺自体が面白くなってくるはずだ。
柳家の教えである、「その人物の了見になれ」に忠実な代表として市馬師匠だろうか。この方は小さん師の剣道の弟子でもありますからね。