役に立つかどうかわからないノウハウをひとつ。
落語のブログ始めたいという、数少ない人にだけは参考になると思う。
当ブログ初めて9年近くになる。
以前から傾向はあったのだが、最近、高座の内容をやたら詳しく書くようになってしまった。
いくらでも書けてしまう。覚えているからだ。
記憶力アップした自覚がある。ブログ書く以外には、恐らく出番のないスキル。
そもそも、高座の内容をどこまで書いていいのかという問題がある。
正確にいえば、問題があると考える人が一部いるだけだが。
演者自身はどう思っているだろう。
中には、あまり嬉しくない芸人もいるかもしれない。営業妨害だと。
なにしろ、落語会の演目をSNSに載せただけで営業妨害だとぶつぶつ言う芸人もいるらしいから。
本当にいるのかな。もしかしたら架空の存在じゃないのかな。
私が営業妨害だなどと考えない理由ははっきりしている。
高座、特にマクラの内容を詳しく書いたとして、「もうブログで読んだからいいや」とその演者の会に行くのをやめるファンなどいないからである。
素人から、「内容を詳細に書きすぎるのは失礼だ」と根拠ない勝手なルールをぶつけられたらそれはイヤだが。
最近、演者が迷惑に感じることなどないだろうとますます思うようになった。
それでも、もし苦情があれば受け付けます。その方の会には行くのやめますから。
ただ当の芸人が、ここでは喋るが拡散しないで欲しいという情報も中にはある。
そういうときは配慮はする。
あくまでも配慮であり、「SNSに載せないでね」自体だいたいはシャレだから、無条件に従うわけではない。
先日の「三三と若手」の場合、三三師匠が本牧埠頭に浮かぶから書いちゃいけないとは思わない。
それよりも、私自身が載せたくないと感じる内容は、載せない。
新作落語(場合によって古典や改作でも)のサゲの重要なものについて、ネタバラシは極力しないようにしている。
見事にオチたマクラも同様。
サゲを割ってしまって常に高座の価値が下がるとは思わない。ただ、そこまですると軽い暴力に感じることもある。
別に、高座の内容を常にそのまま書いているわけではない。私自身が面白いと思った事実を書いているわけである。
だからつまらないマクラは、書かないし、覚えておきたくもない。
たまに、「どうしてこんなにつまらないネタを堂々喋れるのだろう」という疑問から出発し、なにかしら触れることはあるが。
さて今日の主たるテーマは、書く書かない以前に、高座をどうやって覚えておくのかという話である。
メモは取らないし、ましてや録音ではない。
黒門亭の一番の忘れ物がICレコーダーだそうだから、マナーを論じる前に録音したい需要自体は常に存在するわけだ。
私は録音したいと思ったことはない。
テレビや配信の動画だったら、繰り返し観る。でも現場の落語はまた別という気がしている。
メモは、書きようによっては別にマナー違反ではない。
ただ、そもそも面倒くさい。そして、記録に残しておかなきゃという義務感に駆られたくない。
忘れたらもう仕方ないと思っている。
実際、寝てもいないのに丸ごと忘れることもある。新作落語の場合に多い。
最近わかったこと。
高座の中身、覚えようとすると覚えられない。
余計なことを考えず、しっかり高座に向き合うと、意外なぐらい頭に入る。
高座からよく、「ぼおっと楽しんでください」と言われるが、これひとつの真理。ぼおっと楽しむことで、頭に残る。
ぼおっと、とは真逆かもしれないが、私は内心で合いの手やツッコミを入れながら聴く。
すでに脳内ブログに書き込んでいるというのが正確かもしれない。
マクラも、冒頭の挨拶から始めるものを除くとおおむね本編と関連している。
なぜそのネタを振るのかには必ず理由がある。そのつながりをその場で認識しておけば、あとはするする思い出す。
覚えているのは、演者のセリフそのものより、客である私の感情の変遷だ。ツッコみながら聴くと残りやすい。
脳内ブログを覚えておくと一番残りやすい。
記憶の正確性の保証まではあいにくできないが。
最近は、披露目の口上やフリートークのような、前後の脈絡の少ないものも覚えられるようになった。
方法論は同じ。
ちなみに演目もメモしない。寄席で昼夜通しで聴いても、まず忘れない。
なぜ忘れないかというと、これも方法論は同じ。
演目が出て、ああこの噺ねと認識した私の心境自体を記憶しているからだと思う。
新作の場合演題を知らないことがあるが、それでも「こんな噺」として記憶を維持する。
たぶん、落語好きならこれは誰でもできるはず。
間違いなく演者に評判悪い演目メモ早書き(私はネタ帳ドレミファドンと呼んでいる)は、やめたほうがいい。
最初の頃は、あとで何が出たっけと、落語の演目一覧をひっくり返し、ああこれだったなんてこともあるでしょうが。
