柳家喬太郎「拾い犬」解説は小原正也氏

TBS落語研究会が録れていた。初回放送のはず。
閉場前の国立劇場が舞台。ということは、1年とちょっと前。撮りだめておいたのね。

「拾い犬」は人情噺である。泣ける。
だが番組自体に大笑い。
この番組の解説部分は、通常カットして保存している。だが、今回はCMカットだけで解説を残した。

いつものように赤荻アナが話し出すが、カメラが引くとお相手の男性は、どこかで見た人。
「小原正也さんです」とご紹介。
メガネを下向きに掛けている、小原正也老人が解説。そんな歳ではないけれど、老人コスプレ。
京須偕充氏が座っていて、マジメな発言ばかりしていた(いいけど)のからすると、隔世の感がある。
小原老人に肩書はない。どうして番組に出ているのかは謎のまま。

この噺は擬古典落語というジャンルですねと解説しつつ、ちょいちょい喬太郎本人に戻ってしまう小原老人。
さすがに素人が解説で最後までやるわけには行かないので、番組からのヒント出しでもある。
ちなみにこのご老人、接続詞の「が」が鼻濁音だなあと。鼻濁音で喋る必要はないのだけど。

小原正也老人、赤荻アナから喬太郎師の話題を振られても、極めて辛辣。
普段苦労してないから苦労すればいいんじゃないですか。
一席終わった後の解説でも、泣かせる噺を作っておけばいいと考える、作者柳家喬太郎の了見を批判する。
ただ、マジメな話をしている体は崩さない。

喬太郎師が病気をしたという言及が小原老人から出ていたので、解説の収録はつい最近のことらしい。

拾い犬は知っている。かつて動画ででも聴いただろうか?
新作落語の速記で読んだかも。
しかし、普段やってる噺でもなかろうに、なぜ今流すのだろうか? 戌年でもないのに。
普段やらないのだとしても、拾い犬の構造は見事だ。小説にはない、落語ならではの構造が見られる。

  • 冒頭:主人公(善吉)と友人(六ちゃん)の子供時代。犬が拾われる
  • 中盤:主人公が奉公に出る(拾われる)
  • 終盤(前):立派な商売人となった主人公が、娘との縁談を仕向けられる
  • 終盤(後):友人との不幸な再会

このすべてに同じ犬、シロが絡む。当初は子犬であり、最後は寿命で死期を迎えている。
犬の一生の期間における、人間たちの生活を描いた作品。
しかしながら、犬が実際にセリフ(吠える)とともに登場するのは終盤(後)だけなのだ。
この時系列には、さまざまな物語がある。
主人公と奉公先のお嬢さんと、犬との物語。だがそれは遠景にやられ、直接的には描写されないのだ。
落語ならではの作り方と思うが、実際はむしろ芝居から来たものだろう。3幕ある芝居なのだ。
マクラでもって、会場が国立劇場なので喬太郎師、芝居ネタを振っているが、それも関係しているようだ。
喬太郎師から歌舞伎の話を聴くなんて非常に珍しいけども、もっと広い意味での芝居なら、むしろずっと関わってきているわけで。
「ハンバーグができるまで」も舞台化されたわけだし。

芝居から持ってきたにしても、師がやっているのは落語。
落語なんだから、もっと途中の描写を入れることは難なくできる。だが、あえてズバッとカットする。
幕ごとの時間経過がまったくなく、瞬時に変わるのは、芝居というよりやはり落語の技法。
これだって、演者のセリフで時間経過を表してもいいのだが、しない。すべてを客に委ねる。

喬太郎師の解説をする小原老人が語っている。
商家の娘と奉公人の恋は、ご法度である場合が多い。
奉公人とひとり娘がデキてしまうなんて、許しがたいというのが、物語における普通の商家の感覚。
おせつ徳三郎が念頭にあるのだろう。喬太郎師もやる演目。
だが、逆に主人自身が奉公人を婿に迎えたいと思ったらどうか。
これだって、当時まるでない話というわけでもない。
どのみちひとり娘なんだから、いい亭主をみつけてやらなきゃいけないのであり、それが娘の好きな奉公人であったっていい。
仕事を任せられる優秀な奉公人なら、商家としても万々歳。
問題があるとすれば、これではストーリーにはなりにくいことだけだろう。
でも、悪の道に堕ちた旧友と、そして犬の一生を描けばこの骨格でも物語になる。
でも決して単純ではない。奉公人の過剰なわきまえ自体が、障害となる。
主人がやたらと煙草を吹かせつつ、婿にならないかと間接的に水を向けても、身分をわきまえた回答しかしない善吉。
ひとりになって、これでいいとつぶやいている。
切ない。
でも、主人に拾ってもらった善吉が、感謝を込めてそう思うのにも無理もない。これは現代感覚からも十分わかるのだった。

その後犬を一緒に拾った六ちゃんがやってくる。ちょっとした道の行き違いで、すっかりワルになっている。
お嬢様を吉原に売っ払う手伝いをしろと。
善吉がこれに乗るはずないことは、序盤から噺を聴いてきた客にはよくわかっている。
六ちゃんは匕首に訴える。

拾い犬は、切ない。
お嬢さんの婿になれるチャンスを断る善吉も切ない。
六ちゃんから善吉を守るシロも切ない。
悪の道に堕ちた六ちゃんも切ない。
善吉を待ち続けるお嬢さんも切ない。
娘の気持ちを理解している主人も切ない。

ちなみに数少ないギャグ、善ちゃんと六ちゃんが拾ったシロを大家が商家に10両で売ったエピソードは、白鳥っぽい。

一部始終見ていて、六ちゃんを悪い人じゃないだろうというお嬢さま。
自分を吉原に売ろうとしていたことも聞いてるのに。
物語の外で、解説の小原老人はそうじゃないと言っている。あいつはたぶん改心はしないと。
きっとそうでしょう。でも、犬がこの男から善吉とお嬢さんを救ってくれるし、結びの神にもなる。

解説の小原老人もコスプレだが、高座の喬太郎師も古典コスプレみたいなところがある。
「剣呑」とか「くんなはい」とか、師は古語や古い言い回しを積極的に用いる。
師匠・さん喬には批判されるが私はこれが好きで好きで。
現代人にだってわからないことはない。

作成者: でっち定吉

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