落語の中の差別(下)

「八五郎出世」における「日本人か?」というクスグリにつき、理屈で反論するのでなく、一般論になっていない一般論を繰り出す志らく。
お得意の寅さんを持ちだして。
どうやら、古典落語は昔のものだからいいのだと回答したいらしい。
しかし、ケチを付けた側は現代の芸能としてこれでいいのかと疑問を呈しているのだから、噛み合わないことこの上ない。
こんな頓珍漢な回答をするぐらいなら、無視していればいいのに。
相手をするなら、自分の序列を確認するエテ公みたいなマウンティングでなく、ちゃんと考えてみたほうがいい。
志らく擁護派は感性しか発動させないからいけない。「世の中だんだんせちがらくなって嫌だ」程度の。
でも、ちゃんと理屈を当てはめてみれば、違うものが見えてくる。
差別についてちゃんと考えることをしないでネタにすると、先日ネタで黒人差別をして糾弾された若手芸人たちと一緒。
あの若手たちについてバカじゃねえのと思える人なら、落語の中の差別についても考えてみようではないか。

日本人か否かで人を区別する発想は、差別につながらないではない。厳密にいえば。
感情論を発動させる前に、物事にはまず理屈で迫りたい。
理屈に基づく苦情に基づく苦情につき、感情むき出しに「日本人しかいなかった昔の噺じゃねえか、バカじゃねえの」と斬って捨てるのは簡単。
でも、日本人しかいなかった昔に「日本人か」はもともとおかしい。
深掘りすれば、現代人の差別意識を内包しているクスグリかもしれないというところまで迫れるかもしれない。
いったんそこまでちゃんと考えてみて、それでも微々たるものなのでやるというならそれもいい。

ケチを付けた側(というか、乗っかってきた左翼系メディア)は、他の八五郎出世(妾馬)に、「日本人か?」というクスグリがなかったとしてなおも志らくを糾弾している。
これはやり過ぎ。
このクスグリ、私はたびたび耳にしている。妾馬でも何度か聴いている。
過去の音源に入っていないからといって、「人種差別主義者の落語家が入れた」と、乏しい落語の知識でもって断言してはいけない。

さて志らくの側も、古典落語のクスグリを現代にそのまま使うことが、人権に対する免責になると思っているのなら、とてもプロとは思えない。
古典落語を、人は昔の噺として聴くのか? そんな単純な芸能なら滅びている。
古典落語で描いているのは単なる昔の風俗ではない。実際には、現代人の心境を投影して描いているのである。
先日、古今亭志ん吉さんの「たらちね」を聴き、そこに現代を感じた。
奉公に上がっていて言葉が馬鹿っ丁寧な女が、顔も知らない男の元に嫁いでくるという、まったく昔の設定の噺にだって、現代性、同時代性は漂うのだ。
だからこそ現代の客に共感を得られる。
志らくなんか、若い頃からそうしたことをしたかったんじゃないか?
過去の志らくの書物を紐解けば、今回の発言と矛盾する記載内容がたぶんいくらでも出てくるはず。
暇じゃないのでそこまではしない。

八五郎出世で描いている兄妹愛や親子の情愛は、昔も今も変わらない。現代性を漂わせるのは極めて容易。
人によってはさらに、身分差別の矛盾を描きこんだりしてしまう。私自身はそういう噺ではないと感じているので、そんな解釈が出てくるとやや引く。
だが噺家の問題意識の中に、身分差別社会の糾弾があったとして、そのこと自体をおかしいとは感じない。落語が現代を描くものだとするなら、自然なことだからだ。
落語においては、妹おつるは口を開かない。直接感情を描写されるキャラクターではないから。
だが、現代人の問題意識があれば、喋らせてしまったって構わない。
封建的な世界だという前提がある中において、女に喋らせて噺に違和感が生まれないで済むかどうかはわからないが、そんな描き方だってあってもいい。
それだけ自由だからこそ、客が気に入るかどうかは常に吟味しないと。

落語の伝統と、表現の自由、そして反ヘイトのそれぞれの立場を止揚させようとするなら、ツイッターにおいてはこういう回答をするしかなかったはずだ。
「差別だというご意見承りました。そう感じる人がいるなら配慮も必要になるかもしれません。ただ、私は外国人を差別する目的では用いていませんし、差別につながるとは感じていません。ですから現状はこの形を踏襲しますが、今後も問題意識を持って高座に挑みたいと思います」
こう返答しておけば、すべてに回答できている。
無理やり噛みついたような、それも絶対的な正義を確立してから挑んでくる人間が相手なら、それでも「逃げだ。卑怯だ」となお言われるかもしれない。
だが、閲覧している第三者は、これで納得するはずである。
もとより全員の意見が一致するはずはない。世間の良識に訴えかけることができればそれでいい。

このクスグリ、入れないと噺が作れないか。それはそんなことはない。なくてもいい。
そもそも、こんなところでウケない。落語の世界の深掘りに貢献するわけでもない。
噺家が弾圧を恐れてこのクスグリ入れないとなると、これは違う。弾圧して抜かせるほど差別的には思わない。少なくとも私は。
だが、落語は突っ張る芸ではないのだ。闘う芸能ではないのである。
自主規制を余儀なくさせるというより、元来が配慮の塊であるのが落語。最初から配慮を内包した芸なのである。
寄席に盲人が来れば、妊婦が来れば、松葉杖の人が来れば、いちいちネタ帳にそのことを付記して、客の気に入ることを心掛ける芸。
今後の志らく、八五郎出世を掛ける際に、意地を張って「日本人か?」のクスグリを入れるのも、逆に屈服して抜くのもどちらもみっともない。
下手をすると、それを理由に一席掛けられなくなってしまうかもしれない。
だからこそ、日ごろの柔軟性が強く求められる。
柔軟とは、日ごろから物事を深く考えず、その場限りの考えをメディアで垂れ流すことではない。

(上)に戻る

 

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。