システムとしての破門を考える(上)

期待の前座、柳家小ごとさんが破門になったというニュース。
その後ずっと調べているのだが、検索しても私の記事しかヒットしない。小ごとなんて前座、最初から存在していなかったかのような扱いではないか。
ツイッターで「小ごと」を検索して最初に表示されるのは、入船亭扇辰師の「優秀な前座 小ごとさん」というワードとスナップショット。
「柳家小ごと」を検索すると、師匠・一琴の弟子の紹介が出てくる。

さて今日は、落語界における「破門」というシステムについて改めて考えてみる。
本来その前に、落語界の徒弟制度自体もじっくり考えてみなければならない。師匠に付かないと、プロの噺家にはなれないという、この前近代的なシステムから論じなければならない。
だが、個人的にはこのシステムにはなんらの疑問を抱いてはいない。落語界を知れば知るほど、この制度あっての噺家だという、抜きがたい信念となる。

落語界の師弟のシステムは、時代に抗って残ったものではないのだと思う。
恐らく、これこそもっとも効果的に噺家を育てるルートであった。だから現代にもなお生きているのだ。
師弟の関係は他の世界にもある。最初から、効率性だけを考えて生まれたシステムではない。
だが、これが結果最適であったために残ったのだと理解している。

プロに付かないとプロの噺家になれないというのをルールだと捉えて、勝手に閉鎖的な世界だと感じる人は多いだろう。
だが、そのようなルールがあるわけではない。
落語をやるぞと決めて、天狗連(アマチュア落語家)になり、そこで独自の工夫によって圧倒的な技量を得て、プロをも蹴倒す実力を身に付け、メディアに引っ張りだことなり、全国で落語会を開けるようになる。そんな道筋が、制限されてなどいない。
仮にそういう人が出現したとして、落語協会あたりがメディアに圧力を掛けるなんてことはできない。そんな力もないと思う。

システムに乗っからないとプロになれないのは、囲碁将棋の世界もそうだ。団体に所属しないとプロが名乗れない点も、落語に似ている。
だが、ごく少ないルートながら脇道からプロになった人もいる。
真に実力があれば、無視することはできなくなるのである。
だが落語において、脇道から無視できなくなるほどの実力を身に付けることが、果たして可能だろうか?
まあ、これに関しては落語界の場合、逃げ道もあるかもしれない。囲碁将棋と違い直接的な勝負ができないため、仮にアマチュアが高いスキル自体を得たとしても、同じ土俵で比べてもらえないということ。
高座以外の要素もすべて含めてプロの噺家ができ上っているということである。

司馬龍鳳という自称プロ落語家がいた(名前が変わって今でもいる)。
この人はシステム的にはプロとは到底いえず、だから本職からも批判を受けた。
だがシステムに乗っかっていないこの人、本質的な部分でもプロではあり得ないのである。
落語界のシステム以外で、噺家らしい成長を遂げる機会は現在はない。

最近は漫才のほうでも、ナイツが師弟のメリットを再び説き始めている。
漫才は自分でネタを作るのだが、古典落語の場合、さらに師匠や落語界から学ぶべきものが多いのだと理解している。
古典落語のネタだけではない。噺家の了見そのものを。
新作の一門だってそうで、円丈、昇太といった新作の一門では、自分で作ることを学ばされるのである。

さて、徒弟制度を肯定するとなると、これとワンセットで破門も肯定しなければならない。
小三治のように破門を濫用する噺家は好きになれない。
だが、破門の権利を師匠が持っていること自体は、受け入れる必要が絶対にある。
破門は、「プロの噺家として一本立ちすることを拒否する」という、師匠からの合法的圧力である。
誰でも辞めなければ真打にだってなれる。だが、「真打にしない」という、弟子を抱える側からの意思表示が破門。
師弟関係を師匠のほうから終わらせるという点で、とてもシステムらしい。
二ツ目までであれば、破門されると問答無用で廃業を余儀なくされる。他の師匠に救われる道もなくはないが、現在非常にその道は狭くなっている。
だから大変な悲劇性がそこに漂うわけである。
真打の弟子も破門できるが、一本立ちしているので廃業を義務付けることにはならない。真打の破門は象徴的な意味しかない。

続きます。

 

作成者: でっち定吉

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