落語とジャズ

三遊亭竜楽師匠のCDを山野楽器で買ったら、銀座本店のジャズイベントの応募ハガキがついていた。
夜にはビッグネームの大西順子が出るが、昼間なら競争率は低いだろうと思って応募したら、案の定当選したので行ってきました。
本当は、落語のCDにハガキがついてきたわけではなくて、通販の送料を無料にするためJ・J・ジョンソンを一枚買ったので、そちらについてきたみたい。
ともかくありがたい。タダ落語も好きだが、タダJAZZも大歓迎。
CD冬の時代だが、たまに買うといいこともある。
銀座本店7階のホールに初めて入った。ここで落語会もやるので、そちらのほうでご存じの方もあるいはいるかもしれない。

もともと私はジャズ好きである。
子供が生まれて以来、ジャズライブには行けていない。落語と違い、ライブは基本夜なので。
子供がもう少し大きくなれば家族で行きたいと思っている。
ライブハウスと寄席とは、非常によく似た空間である。比較の対象とする寄席は、黒門亭とか上野広小路亭とか、小さいほうがいいと思う。

落語から、伝統芸能である歌舞伎、文楽等へ進む方もいるようである。それはそれで結構。
だが、スタイルとしては、落語は伝統芸能よりジャズのほうにずっと近いと思う。歌舞伎など、たまに行くし好きだけど、落語との共通点は別段感じない。
クラシックでも別にいいのだけど、ジャズのほうが官能的で、より落語に近い。
ジャズも落語も、「大衆のもの」を標榜しつつ、微妙にそうではなくて実はインテリ(だと自認する人)のものという点もよく似ている。
音楽にではなく、聴いてる自分に酔いしれてしまいがちなところも。いや、それが悪いというんじゃない。

ともかく、久々のジャズライブでとても嬉しい。わずか1時間だが楽しませていただいた。
面白いことに、何年もライブのジャズを聴いていないのに、楽しみ方が向上したことに気づいた。
これは、明らかに落語を聴いているおかげである。落語の聴き方が上達するとともに、ジャズも一緒に聴きやすくなったのだ。
思わぬ発見。

生で落語を聴くときは、脳の機能を分割する。この脳みそ分割にいつの間にか慣れたらしい。
落語そのものを耳からストレートに取り入れて楽しむ脳と、落語を横から観察し、分析する脳である。
久々にジャズを聴いたら、落語と同じようにこうやって聴けたのである。

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生で落語を聴くときは、脳の機能を分割する。
ひたすら心地よく楽しむ部分と、耳から入ってくる楽しさを、頭の落語データベースと突き合わせながら分析していく部分とに分ける。
ひたすら楽しむ部分の働きが強くなるのは理想的だと思うが、頭に引っ掛からず通過してしまうと記憶に残らなくなってしまう。なにを楽しんだのかすら頭に残らないのはさみしい。
感動を言語化できなければ、他人に伝えることもできない。
落語初心者の方に多いのではないだろうか。なんだか楽しんだような気がするのだが、なにがなんだか思い出せないしブログにも書けないという。
仕方ないので感想が「やっぱり落語は生がいいですね」「やっぱり話芸はいいですね」。
まあ、そりゃそうだ。でも、それは別に悪い経験というわけではない。
薄れる記憶を、メモを取ることでつなぎとめようとしだすと、それは大きな勘違いだと私は思う。高座を聴いて頭に残しておけるのは、聴き手の感情を伴う記憶であって、目の前で瞬時に消えていくライブそのものではないのだから。
脳をうまく使えば、感情に引っ掛かるのでそれとともに記憶にちゃんと残る。
寄席で楽しめたときというのは、この二つの脳の働きのバランスが非常にいい。
いっぽう、分析する脳だけ働いているという状態は最悪である。
高座がまるで楽しめないときに、脳の働きを分析に特化することが多い。「なぜこの落語がつまらないのか」をひたすら分析して聴くのである。苦行である。

今回の山野楽器でのライブ、気が付くと、ジャズを落語と同じように聴いている。
耳から入ってくるスタンダード曲のメロディーとリズムを楽しみながら、持っているアルバムと突き合わせ、あ、ここに工夫をしていると分析しながら聴くので、二倍楽しめた。
スタンダード曲というのは要するに古典落語。過去に別のミュージシャンのものを聴いた記憶が脳のデータベースに収まっている。落語の演目と同様、曲名は知っていないとデータを引きずり出しにくい。
データベースを充実させるためには、落語もジャズも、普段からCDなど音源をたくさん聴いていたほうがいい。
生の音と、記憶とをシンクロさせて聴くことで、凝ったアレンジもちゃんと楽しむことができる。
落語界で、アレンジの楽しさをもっとも味わわせてくれるのは春風亭一之輔師であり、変拍子によるグルーヴ感をもっとも味わわせてくれるのが柳家小せん師匠である。
小せん師の落語に漂うグルーヴ感は、まさにジャズ。先人のリズムと、ちょいとズラして、なおかつさらに気持ちいいリズムをぶつけてくるところがいいのである。
絶対音感の持ち主だというのはホントだろうか。ただ、さもありなんと思っている。

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タイトルを、「らくごとジャズと音楽と」にすればよかった。音楽が被ってるからダメか。

ジャズマンも噺家さんも、先人のフレーズをそのまま使うのではなく、自分なりの物を見つけ出すのが個性となる。

「スタンダード=古典」に対応し、ジャズにも新作がある。これは「オリジナル」という。
オリジナルを聴く際には、脳内データベースから引き出してくる音楽がないかというと、そんなことはない。
ジャズにも落語にもちゃんとスタイルというものがある。スタイルをキーにして、いろんなものを引き出してきて分析しながら聴く。
あのスタンダードに似たフレーズであるな、とかいろいろ考える。
結局、新作落語を聴くときと同じように聴いているわけだ。

かように聴き手において、落語とジャズを同じように聴けるということを発見した。大いなる収穫。
さらに、他にも日頃、落語についていろいろ考えていることがジャズのライブにシンクロした。

この日のピアノトリオなど、特にミュージシャンの協力がものをいうプレイである。そして、ソロもある。
落語も「寄席」の一日を考えると立派なチームプレイなのだが、落語がジャズと似ているのは、むしろ一席の落語の中における登場人物の掛け合いに関してだと思う。
ひとりの噺家が語っている以上、一席の噺は予定調和に終わりそうにも思う。事実、前座さんだと得てして完全予定調和で、保育士が子供たちに「おはなし会」をするのと変わらない。
だが、一人前の噺家なら必ずしもそうでなく、アドリブを入れてくる噺家さんも多い。それも、たまに登場人物が自分のセリフで言っているとしか思えないアドリブを魅せるときがある。
そうなると、他の登場人物もそれに合わせてセリフを変えていかないといけない。
もちろん冷静に考えれば噺家さんの匙加減ひとつだろうけども、よくできた落語においては、登場人物が自分の肚で喋る。
好き勝手していいわけではなく、他の登場人物との掛け合いが大事。そこがジャズと似ている。

客にも共通して求められていることがある。ステージの空気をよく読むことである。
ジャズにおいては、ソロを取った後に拍手をすることが儀式化している。
落語にも拍手がある。噺家さんの言い立てが見事だったり、酒を旨そうに呑んでみせたときにする、中手というやつ。
市馬師や小せん師のように、特に柳家で嫌がる人もいるが、ギャグで催促する桃太郎師のような人もいるから、「中手はしない方がいい」ともいえない。
ジャズも落語も、手を叩けばいいというものではない。演奏の、高座の邪魔になってはいけないのである。
神経を研ぎ澄まし、客に求められていることを忠実に実行しなければならない。客が「俺はわかってるぜ」という自意識のかたまりになってはいけない。

初めて聴くこの日のピアニスト自体はそれほど気に入ったわけでもないのだけど、いろいろ脳みその片隅で考えていたのでとても楽しかったのであります。
ベーシストは高名な人で、ドラマーもよかったので文句はありません。

作成者: でっち定吉

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