「漫才じゃない」「落語じゃない」

M-1グランプリの記事、多数のご来場をいただきました。
素人の漫才批評にお付き合いくださり、ありがとうございます。
さて今日は、朝になっても記事ができていません。
人気のない、落語のオチの連載も仕上がっていないので、M-1の余韻に浸りつつアドリブで書きます。

マヂカルラブリーの優勝に端を発し、漫才か漫才じゃないかの議論がかまびすしい。
擁護派には、三河万歳からつながる漫才の歴史を持ち出す人までいたりして。
私自身はマヂカルラブリーが漫才じゃないとは書かなかった。そもそもリアルタイムで観ていてそんなことは一切考えなかった。
私が思ったのは「ギャグが掛かってなくてつまらない」だけである。スタイル自体に違和感は覚えなかったので、世間の反応はよくわからぬ。
そして、「こんなのが優勝して嫌だ」とも書いていない。
でもなんだか、私までもらい事故が来そうな気はするな。

上目線の素人は黙ってろみたいな意見も、一緒に湧いて出てきたりして。
でもねえ、本当につまらない意見は誰の反応も得られないので、怒る人が目にすることはないのだが。上目線はよくないにせよ。
目にするのは、過激な情報か、そこそこ面白い情報のはずです。念のため。
ちなみにプロのライターでも、プロの芸人に素人呼ばわりされることがある。かつてラリー遠田氏がそう言われた。

さて、理由が明白にあって面白いと思わなかったマヂカルラブリーを、擁護することはできない。
だが、演芸のスタイルについては、私がいつも聴いている落語を例に取り上げることができる。

漫才とはなにか。
トリオもあるが、基本的には2人が立ってやりとりをするスタイルである。
そして、コントと対比される。
現代においてコントの区別が混沌としてきているのが、「漫才じゃない」論評の前提にある。
ただ現代でも、スタイル的に漫才とコントとは大きく違う。
最大の違いは、一応は演者が「素で」舞台に登場すること。
素というのは、本当に演じていないということではない。「野田クリスタル」「村上」という漫才師として舞台に登場することである。
いったん挨拶をしてから、何らかの役割に入ることもよくある。これを漫才コントということが多い。
漫才コントは漫才ではないのか。あまりそうは言われない。
いとこい師匠の警官ネタは立派な漫才コント。古い例は、反論に使いやすい。
まあ、お前よりは斯界の知識を有しているぞというマウンティングにもなる。

この点でいうと、「漫才じゃない」はやはり意味不明。
マヂカルラブリーは、立ち高座でもって、今からやることを説明してから自由演技に入っている。
私が「漫才じゃない」という感想を一切持たなかったのは、このあたりの形式面、約束ごとによるところが多い。

ただ、「コントの大会でやって欲しい」なら、かなり理解しやすい意見とはなる。あのネタのエッセンスがコントにふさわしいとはいえる。
でもこれはこれで、「漫才>コント」(M-1グランプリ>キングオブコント)という現在の人気の位置付けを背景にした意見にも思える。
その点、ちょっとやるせない。
漫才好きの中には、コント界からの浸食を許しがたい気持ちもあるのだ。

でもおかしいな。
あの大会でもって、漫才コントということなら、見取り図も、アキナもそうだった。
見取り図は「最終決戦進出の唯一の本格派」なんて言われている。動きも多かった。
なんだ本格派ってと思う私。
アキナは、漫才のスタイルから、さりげなくメタ的にコントに入っていく。
見取り図もアキナも、「コントの大会でやって欲しい」とは言われない。アキナは、漫才としてしか成り立たないネタだが。

漫才はしゃべくりで、コントは芝居。出自が相当違うものが接近している。
接近している以上、両方をやる芸人は普通。
非常に近いものである以上、ファンが言い過ぎると変なこだわりには感じる。
ちなみに、芸協でよく出るコントは非常に緩い。これは、コントの側から漫才に接近している舞台である。

こういう形式面の議論は、落語にもある。
落語と近い芸は、漫談である。
もっとも共通点はひとり芸(ピン芸)だということ。あとはあまりない。
漫談は立ち高座が多いし、衣装も派手。だが絶対ではない。座布団の上で着物で語る漫談も存在する。

ただし漫談家の漫談は、明白に別ジャンル。
漫談家が落語をすることはない。林家ペー先生が落語をしても、素人として扱われる。
漫才・コント界ほとフラットではなくて、落語にはライセンスがいるのであった。
冷静に俯瞰して眺めると、ここだけいきなり、大衆芸能でなく伝統芸能になってしまっている。それはさておき。

落語か漫談かという議論は、噺家(落語家)自体に存在する。
漫談メインの噺家という人が多数いるのだ。
噺家の漫談、特に浅草ではよく掛かるが、嫌いな人も多い。
ひと昔前だと、新作落語と一緒に嫌われたりなんかして。
ただし漫談も、落語と明確に違う芸でもない。マクラが長くなって、時間調整のためそれで終えてしまうと、漫談になるのである。
そして三遊亭圓歌師のように、先代も当代も漫談の大家なんて人もいる。突き詰めれば芸として評価されるのだ。

まあ、古典落語と新作落語なんていうのもそうだが、芸を形式でもって、必要以上に切り分けないほうがいい。
渾然一体なところが面白くもある。
「漫才じゃない」論の人にもそう言いたい。
そして、コントを見下さないこと。

作成者: でっち定吉

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