落語の「教え魔」(下)

落語における教え魔は危険かつ有害。それは、ひとに上から接したいという誘惑が、観劇のマナーにおおむね抵触するからだ。
私が何度も書いている、次の悪マナーも、すべて教え魔的欲望に起因しているのだ。それに気づいた。

  • マクラの時点で、これから掛かる演目を先取りしてメモする
  • 一席終わった後の拍手が、やたら早い
  • マクラのネタにいちいち手を叩く

演目メモ(私はネタ帳ドレミファドンと呼んでいる)は、周りに対する無言のマウンティングである。
演者にとってこれが不愉快でたまらないのは、その行為の根本にマウンティングの傲慢さをかぎ取るからだろう。
一席終えた際の食い気味拍手も、「この噺を俺は知っている」というアピール。
ただ、サゲなんてそもそも一種類じゃないから、マナー以前の問題として、高座をぶち壊す危険があることをお忘れなく。
マクラ(しかも古典落語に付随したありきたりのもの)にいちいち手を叩くのは、他のふたつと違い、寄席に慣れていない客の悪いマナー。
慣れていないのに、「あたしだけはあんた(演者)の話をちゃんと理解できたわよ」という、よくわからないマウンティングは可能なのだ。他の客にも、演者にも乗っかるわけだ。

あとは、ひとりでブツブツ、他人の耳に入る程度につぶやいている人も困る。
自分の中の教え魔的感性を自覚している人は、なんとかその解消を考えたほうがいい。
ブログ書くのもいいと思う。
あるいは歌舞伎に行って、「音羽屋!」をやればスッキリすると思う。

さて、ここからやや角度を変える。
ツイッター芸能人にも、「教え魔」の資質が濃厚に見られる。このことに気づいた次第。
世の中には、正論を述べるものの、世間の多数に今一つ響かない人がたくさんいる。
響かないのは、教え魔だからなのではないか。そう思った。

ホリエゾンみたいな野郎は、当然のように真上からやってくる。こちとらテメエみたいなアホバカとはレベルが違うと。
このように、露悪的でわかりやすい例とは異なる。左翼文化人たちは、教え魔の資質を一応隠している。
でもどうしても、「無知な大衆を教育してやる」という目線が隠せない。ラサール石井が典型例。

左翼が自然とこうなっていくのは、やむを得ない気もする。
女性差別や障害者差別などのシーンにおいて、「あなたは根本的に間違っている」から始める必要性は理解する。
だが、自分の中のマウンティング性向を放置していると、いずれ対話が成り立たなくなってしまう。
正義は我にあり。正義に逆らう人は悪。自分を戒める強い自覚がないと、こうなって袋小路に陥るのだ。

オリンピック反対活動は相変わらずだ。
「#池江璃花子選手は立派だが五輪開催は断固反対」というハッシュタグまで飛び交っている。
このハッシュタグを見て、「反対派にはこれだけ多くの仲間がいる!」と喜び勇むのは、認知の狂いのなせるワザである。
オリンピック反対に合理性を見出すのなら、世界中のすべてのスポーツ大会にもすべて反対していないといけない。野球にもサッカーにも相撲にも。
そもそも五輪予選が開かれたことにすら、怒らなければならない。
「池江璃花子選手は立派だが」を頭に付けるのは、とてもいやらしい。
そういう意味では、池江選手をバッシングしている人の方が、筋はまだ一貫している。人としてはクズだけど。

マスターズの前、全豪オープンの大坂なおみの際にもすでに感じた。
これだけすでにスポーツの大きな大会が徐々に盛り上がってきている中で、かたくなにオリンピック反対を唱える人の気持ちはわからない。
「できればやって欲しくない」気持ちまでは尊重する。だがオリンピック中止を「正義」として持ち出す人には、到底ついていけない。
といって私は「オリンピックをなにがなんでも開催して日本の景気を盛り上げよう」なんて思っていない。
大声上げて反対する理由がゼロということ。

立川談四楼師も先のハッシュタグを付けていた。
洒脱なユーモア溢れるエッセイや小説で評価を得ていたこの人も、いよいよコチコチの思想の付いた左翼モンスターになってしまった。
毎年のように出版物を出していたのだが、3年ぶりに昨年本を出し、共産党を礼賛していた。
しばらく次の出版はないと思う。

深い教養がなくても、左翼サイドにいることはできる。
教養がないことの自覚は一応あるので、「お笑い」を武器に参戦しようとする。この痛い例が、立川雲水とぜんじろう。
これも結局、「お前らの支持する政治家がどんなにバカかわかりやすく教えてやる」という、マウンティング教え魔的性向から来るものだ。
笑いを上からおっ被せようとして、別の意味で嗤われるという。

左翼だけが教え魔でもない。
志らくもそのマウンティング性向は世間に見抜かれていたが、やはり教え魔だと思う。
教養が欠けているほうが教え魔になりやすいのである。
世間の馬鹿どもに談志の教えをわかりやすく説こうとして嗤われる、その構図は同じ。
弟子降格事件というのも、「落語界の厳しさを教えてやる」という教え魔の姿。さらに世間にもそれを伝えようとする。

名を挙げた人たちになんらかの不快感を持っている人なら、きっと教え魔にはなりません。ご安心を。

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作成者: でっち定吉

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