この日は歩きすぎるぐらい歩いてきたので、途中で寝てしまう不安があったが、セーフ。
仲入り休憩で缶コーヒー飲んで後半に備えます。
後半の幕が開くと、また見台はなし。
4人目は笑福亭銀瓶師。ラジオでよく聴く人である。この日のメンバーではいちばん聴いてるんじゃないか。だが、お見かけするのは初めて。
横浜にぎわい座は、調べてみたら5年振りでした。5年前の5月5日に師匠・鶴瓶と親子会で寄せてもらってますとのこと。
私、裸眼視力が0.01ぐらいなんで皆様のお顔がぼやーっとしております。
横浜のお客さんのお顔を拝見したいので、一度メガネを掛けさせていただきます、といってサングラス。「やしきたかじん」。客、爆笑。
ほー、関東のお客さんにもまだまだウケるもんですなあだって。
銀瓶師の近所、お子さんが卒業した尼崎の小学校に、学校寄席に呼ばれている。そのマクラ。
噺家の共通財産である、生徒の作文ネタ。
ぼくは今まで2回、生の落語を聴いたことがあります。銀瓶さんの落語は3番目によかったです、とか。
ところで、「しょうがっこう」と発声する銀瓶師、鼻濁音だったので驚いた。「が」が鼻に掛かるのだ。
故・小三治の「落語家論」には、鼻濁音を日常的に使わない上方落語家も、高座では使おうと努力しているのだと書かれていた。
もっとも、楽屋で鼻濁音のことばかりブツブツ言っていたらしい小三治に好感は持っていないし、落語の実力が鼻濁音の有無で決まるわけもない。
ただ、鼻濁音自体にはたまに気づかされることがある。私自身は日常では使えないけど。
上方の噺家さんから明確な鼻濁音が聞こえてきて、驚いたと、それだけの話ではあります。
見台こそ使わないが、トリの鶴光師も上方落語のスタイルの代表例として挙げていた、見事な一席。
ハメモノがとことん入る、芝居噺の七段目。ひちだんめ。
芝居の所作を見せるためには、見台は邪魔だ。先代春團治は見台を使わなかったはず。
銀瓶師には「端正」なイメージは持っていたが、端正を超え、実になんとも華やかな、艶やかな人であったものだ。
ラジオの落語を悪く言う気は毛頭ないが、この芸はラジオじゃ伝わらない。
銀瓶師、今まで聴いていた範囲でも十分好きなほうに入る人だけども、どうやら過小評価に過ぎたようである。
そして、「実は上手い」のレベルよりずっと高い、銀瓶師の噺家としての格の高さまで実感した。
鶴瓶師の弟子からこういう人が出てくるから落語界は面白い。春團治や文枝の系統ならわかるけども、笑福亭自体には存在しなかったスタイルではなかろうか。
七段目自体は東京でもしばしば聴く噺。中身はほぼ同一。
ただし、膝立ちして所作を見せるのは、東京では観たことはない。
芝居キチガイの若旦那。今日も六方踏んで帰ってくる。
旦那の小言も全部芝居で返してしまうので、二階に上げられてしまう。二階でもおとなしくはせず、一人で芝居をしている。
旦那に命じられて二階に注意しにきた定吉も芝居好き。二人で忠臣蔵七段目を演じているうち、つい本気になって刀を抜く。
サゲだけ東西で違う。「てっぺんから落ちたか」「いいえ七段目」が東京。元祖上方では逆になる。
比較が容易な分、過去聴いたものと比較しても非常に結構な一席でした。ハメモノたっぷり、五感を駆使して味わう官能的な総合芸能。
かつて、芝居に行けない客に芝居を楽しませていた、芝居噺のルーツを強く感じる。
そして七段目という噺、オタク落語のルーツかもしれないな。それも感じる。
最近、新作落語だけでなくて古典もオタク要素が強くなっているように思うのだが、実は古い歴史がある。
どんなジャンルでも、夢中になっている人を横から見るととても楽しいものなのだ。そのことを再認識。
喬太郎師が、このあたりの古典落語からウルトラマン落語を作り出すのは、とても腑に落ちる。
横浜にぎわい座は大変気に入ったが、桟敷にいた客だけ気に入らない。これは銀瓶師とはまるで関係ないのだけど。
端っこに座っていた私に対し、足を伸ばして汚い靴下をこちらに向けている。やめてくれい。
桟敷の客は見られてるのだからちゃんとしましょう。