一席終えて、浪曲教室に。
浪曲は、三味線の糸3種類にそれぞれ対応する声があるんですといって、低・中・高の声をそれぞれ実演する太福さん。
へえと思う。我ながら、なにも知らないものだなあ。
客と声を合わせてうなる。これ、貸し切りでよかったですね。変な宗教みたいですだって。
なかなか面白い体験でした。
仲入り後はご存じ次郎長伝。
次郎長伝はもともと、玉川派の売り物だったが、広沢虎蔵によって有名になったのでその後遠慮したそうで。
その代わり、玉川派は国定忠治のほうをもらってネタ交換したんだそうだ。
今日は、前半を玉川派の台本で、ご存じ三十石船を虎蔵のでやると、太福さん。
落語を聴いていてもそうそう出ないが、寄席の合間に掛かる講談で次郎長伝はよく聴く。
私は決して、そんなに知識を持っているわけではない。なのに、脳内のどこかになぜか叩き込まれているのだ。
たまに聴く講談によって、長い次郎長伝の各部分がつながってくるのも楽しい。
この日は石松金毘羅代参から、三十石船。
ちなみにこの後が、連雀亭で聴いた見受山鎌太郎になる。
この前のエピソード、代官切りで見事勝ったのは金毘羅さまのご利益。石松にお礼参りの代参を命ずる次郎長親分。
ヤクザが出入りに勝ったお礼参り、よく考えたらすごい設定。
酒が入ると人が変わる石松に、親分は戻ってくるまで一滴も飲むんじゃねえと。
石松、それはできねえので甘いもの好きの子分に頼んでくれと。
親分怒りのあまり、石松を斬り殺すから表に出ろというが石松動じない。親分に斬られるなら本望だ。
そこに一の子分の大政が仲裁に入って事なきを得る。
ヤクザなんてものは、現代社会では非常に肩身の狭い存在。
それを描いた話にいまだ命があるのはなぜか。じっくり聴けばよく分かる。
精神的ホモである男同士の結びつきもあるが、それだけではない。浪曲でも落語でも普遍的な、師弟関係(疑似親子)というものがしっかり描かれている。
その人情が、聴き手に訴えかけてくる。
そして、親分に斬られたっていい、酒はやめねえという石松の意地。
こっそり飲んで、清水に戻ってくる前に抜けばいいと策を教える大政。
かわいい子分を斬りたくなどないが、このままでは示しの付かない次郎長。
ヤクザ社会だけではない。世間に共通する人間模様。
東海道中の言い立て、というか浪曲だから歌だが、とても気持ちがいい。
金毘羅さまからの帰途、大坂から京都伏見まで、三十石船に乗ってご存じの場面。
飲みねえ飲みねえ、寿司食いねえ。江戸っ子だってね。神田の生まれよ。馬鹿は死ななきゃ治らない。
私自身は浪曲を聴いて育ったわけではないが、こういうフレーズはどこかに叩き込まれている。
今の若者はどうなのだろう?
最近の若い子のほうが、北斎・広重の浮世絵などの江戸文化に囲まれて育っている。意外となじみ深いのではなかろうか。
うちの落語好き息子も浪曲を聴きたがっているから、今度連れ出してやろうと思う。
船内で、東海道一の親分は誰かと言いあう乗客。
5年すれば見受山鎌太郎だというものに、来年のことを言やあ鬼が笑うと江戸っ子客。東海道一の親分は清水の次郎長にとどめを刺すと。
客を呼んで押し寿司をふるまう石松。さらに聞き出すと、次郎長のところは子分がいずれもいい。
誰がいいんだと聴きだすが、なぜか石松の名前が出てこない。イライラする石松。
やっと思い出した江戸っ子が石松を褒めたあと、ただ石松は馬鹿だからなと。
喧嘩になるのかというところで「ちょうど時間となりました」。
実に楽しく、実に刺激的な1時間半の会であった。
太福さんはすばらしく、浪曲も実に楽しい。心身ブラッシュアップされた気持ち。