スタジオフォー巣ごもり寄席6(春風亭朝枝「看板のピン」)

WBC決勝戦の水曜日は、テレビを観たいいっぽうで、出かけようかとも思ったのだった。
カメイドクロックで、三遊亭好二郎さんの無料の会がある。11時と13時の2回。11時は間違いなく試合中。
亀戸は、心理的には地元みたいな地である。
無料落語大好きの私からすると、「いやあ皆さん、野球観なくていいんですか。私だって仕事なければ観たいのに」なんてマクラを楽しみに行くのも、それはそれでありなんじゃないかと。

だがこの会以外にも、この水曜はスケジュール帳に会が書き込まれていた。
梶原いろは亭では12時から、かけ橋、小はだ。
そして巣鴨スタジオフォー巣ごもり寄席は、13時からで、あお馬、朝枝、辰乃助。
重なってるから両方はムリ。
野球が延長に入ると観られなくなるのを承知で、スタジオフォーの予約を入れた。
この心理状況、人さまには説明しづらい。
確かに私にとって落語は重要。
でも、いろは亭も巣鴨も、亀戸も、この日どうしてもいかなきゃいけないもんではないのに。

そんな内心の葛藤を抱えつつ出掛けたスタジオフォーは、お目当て朝枝さんの一席を除くと、イマイチでした。
これが人生だ。
ちなみに野球は幸い、ゲームセットまで観られました。
最後も大谷が投げて締めて。
これ、現実だから。
連載マンガだったら、あまりのリアリティのなさに読者が怒り出している。
コントとか新作落語の場合、この現実を踏まえて新たなものを創作しなければならないのだ。
「大谷のカメラ目線がむかつく」なんてのは、ギャグとしては下の下である。

野球の余波か、巣ごもり寄席の客は20人程度。
辰乃助、朝枝、あお馬といずれも鼻濁音を強調する人たち。全員落語協会。
別に鼻濁音を聴きにきたわけではない。
辰乃助さんは、師匠をしくじったマクラの話術がイマイチで、脱落。
素材はいいのに。
演目は阿武松で、板橋宿から始める聴いたことのないバージョン。
トリのあお馬さんは、40分使って季節の大ネタ、花見の仇討。
文句なしに上手い人。
だが噺を編集しないで、先人のクスグリをみんな入れる。
語りよりも、脳内ストーリーが先に行ってしまい、焦れるのなんの。
膨らませるのと刈り込むのと、両方必要でしょ? なまじ大ネタなので退屈してしまった。
私ひとりとっくにサゲまで行きつき、噺が追い付いているのをじっと待っている。
こういう、クスグリ過剰の落語を表する言葉を私は持っている。スタンプカード芸という。
演者の脳内スタンプカードに、クスグリ入れるたびにスタンプを捺していく。全部埋まったらおめでとうという芸。

あお馬さんは、なんと前座の2017年以来の高座。神田連雀亭に出ている人なのになぜ遭遇しなかったのか。
前座の際聴いた寿限無は、言い立てがやるたびに違うという一席であった。そんな古傷をとやかく言うわけではない。
「頭が百(文)でしまいが一(朱)」を百人一首と掛けた小噺は、実に珍しいもので聴けてよかった。

二番手の朝枝さんが、トリに気を使ったものか17分ぐらいの高座だった。
相変わらず、寄席文字書家の筆ではないメクリ。
朝枝さんは日曜日に、さがみはら若手落語家選手権で優勝したばかり。
全然驚きはしない。
マクラでそんなことは一切語らなかった。とっとと本編「看板のピン」へ。

朝枝さんは、前回聴いたのがやはりここで、昨年の12月。
その一席は非常によかったのだが、同時に小三治化を勝手に懸念したのだった。
小三治化とは、客を制圧し、錯覚させて上手さを味わわせるという手法。
まあ、それで世間一般の評価は高まるだろうから、そんな道を歩んだらいけないなんて言いたいのではない。
好き嫌いはあるけれど。

前回聴いた夢の酒の大旦那と、看板のピンの隠居の親分の発声が一緒。
鼻にこもらせて喋ると貫禄が出る。

サイコロの説明が入念だった。
普通は、「裏表を足して7、五はグという、お釈迦様がこしらえた」ぐらい。
だが朝枝さんは、「天一地六東五西二南三北四」の説明を入れる。
2から5の目が東西南北だというのは知らなかった。覚えて帰ったわけじゃなくて、Wikipediaで調べました。

それから、「サイコロをひとつ使うのがちょぼいち、ふたつが丁半、みっつが狐」。
さらに4つも教えてくれたが忘れてしまった。
狐は、「今戸の狐」に出てくる賭博であり、ちょぼいちの変形。
3つはチンチロリンじゃないのかというと、チンチロは戦後流行ったから間違いなのだ。
普通の噺家がスルーする部分をちゃんと調べている、偉い人だ。

朝枝さんのベテラン的貫禄に圧倒されつつ、私の脳の一部では跳ねっかえりの感性も活動していて、「若いのによお」とほざいている。
だが、この感性は噺の進行につれ、おとなしくなっていった。

看板のピンでは、客の制圧なんてシーンはなかった。
ただ、高座でやりたいことをじっくりやり、客がそのじっくりさを楽しんで待っているという傾向はある。
それは結局、制圧されてるのだろうか。
制圧されたらイヤ、じゃないのだ。むしろ気持ちいい。

客を制圧するシーンがあるとすると、オウム返しで壺皿を振る男が、いつまでたっても壺にサイを叩きこまない場面。
普段胴を取らないからできないのか。それとも、看板のサイをまとめて仕込もうとして、それが上手くいかないのか。
わからないながら、じっくり待ってしまった。
いつまでも待てる。

そして演技が圧倒的に上手い。
イメージとしては、落語のではなく、芝居の演技だと思っていた。
だが、ご承知のように、看板のピンのオウム返しは、リアルな世界では成り立たない。
芝居っぽいのに、しっかり落語である演技。なんという、ほどのよさ。

だが実のところ、その魅力の全貌はようとして知れない。
わかったような気にはちょくちょくなるのだが、奥が深い。
どうして、隠居の親分がじっくり博打を語りこむだけで、ギャグのひとつもないのにこんなに楽しいのか。

朝枝さんをもっと聴きたいのだが、連雀亭も辞めてるしな。
昼間の独演会のチラシが入っていたので、それに行こうかな。

作成者: でっち定吉

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