古今亭志ん朝「火焔太鼓」

昔の音源・映像はYou Tubeその他で聴けるのに、テレビから流れてくると妙に付き合い方が変わるのは不思議だ。
私も令和の現代を生き抜いているようで、しょせんは昭和生まれ。
志ん朝なんてわかってるさと思っていたが、テレビから流れてきた映像に、大いに刺激を受けた。
子供の笑い声が終始入っていたのも新鮮。子供にもさぞ楽しかったろう。

NHKで「おとなのEテレタイムマシン」とのことで、いにしえの番組「演芸指定席」。
1985年から1988年までやっていた、昭和末期の番組。
東京落語会で収録した高座を流しているわけで、日本の話芸の前身だ。

演目は火焔太鼓で、古今亭のお家芸。
門外不出のはずだったのに、先代柳朝があちこちに流出させてしまったのだという。
だが、流出した割にはそれほど聴く噺でもない。そんなに面白いわけでもないからだろう。
本家のものは本当に面白いのだが、実は中身がカラッポに近い。誰がやっても面白いというわけにはいかないようだ。

いろいろ考えながら、繰り返し3度聴いた。

  • 志ん朝の噺のリズムは、現在真似る人がいない
  • コピーできればそれっぽくなるが、露骨になってしまう
  • 当時として斬新な芸(猛烈なスピードなのに抑揚がしっかりついている)だったのは、現在でもわかる
  • ボケに対するツッコミ(甚兵衛さんに対するさむらい)が穏やか。これは意外な発見
  • かみさんにやりこめられる甚兵衛さんは決してかわいそうじゃないし、300両持って帰ってざまあみろでもない。これも意外な発見
  • かみさんも表面的には厳しいが、驚くほど優しい
  • 甚兵衛さんは与太郎みたいな足りないキャラではない
  • バカメでなくてバカガオだった

なにもかも、意外な発見。
そして、火焔太鼓という非常にメジャーな噺から、発見が次々湧いて出たというオドロキ。

志ん朝のコピーっぽい語りは、現在の金馬、以前の金時師から聴いた。だがそれぐらい。
コピーだとしても、確立された語りの体系であり、いいものだ。
だが現在、アンタッチャブルな領域のようである。露骨すぎて恥ずかしいのだろう。
そして志ん朝の前にはいなかった。

コピーではないが、エッセンスがわりと似ている現代の噺家をひとりだけ発見した。三笑亭夢丸師。
声の質が全然違うので、エッセンスを取り入れやすかったものと想像する。夢丸師も、複数のセリフをつなげて話してしまうひと。
カミシモはしっかり入れ替わるのだが、セリフの切れ目がないので高揚してくる。
あとは、噺に対する取り組み方が似ているのが、柳亭小痴楽師。スキマを開けずセリフを詰め込んでくる。
とはいえ、やはり志ん朝、当時も、そして今でも唯一無二。
志ん朝は外形的に見て一本調子で、しかしアクセントがついているという不思議な語りである。夢丸師も小痴楽師も、これはない。
米米CLUBの「浪漫飛行」の冒頭部はメロディの上げ下げがなく、非常に難しいが、終始そんな感じ。
カラオケでなく落語だから、好きなメロディラインを選べるのに、志ん朝はあえて狭いトンネルを突き進む。
なのに、非常に表情豊かに聞こえるという。
逆説的だが、音域が狭いからこそ豊かに聞こえるに違いない。

噺家が個性的な語りを見つけるまでの奮闘は、今度書こうと思っている。
奮闘の結果が、棒読みである場合もある。

それから、ツッコミの軽さ。これは相当驚いた。
最近の若手は軽いツッコミ、もしくはツッコまない作法が非常に上手い。
だがひと時代前は、お笑いと同様、落語のツッコミもくどかったと、そういう認識でいる。
この典型例が、志ん朝の弟子である志ん輔師から聞こえてきて辟易したものだ。宮戸川でもって、「締め出し食べちゃった」にしっかりツッコむあたり。
もっとも落語も、さらに昔、志ん朝のおとっつぁんの志ん生の全盛期は、ツッコミが軽かったという認識である。
志ん朝のこの高座の昭和末期は、時代的にはしっかりツッコむのが標準だったと思うのだ。
しかしその中で、軽い道を行く志ん朝。
太鼓の買い上げを取り次いでくれるさむらいは、本当に怒らない。
怒らせるほうが簡単なのだ。それどころか、イライラしている様子でもない。さすがに妾馬の三太夫だったらこうはいかないかもしれないが。

人間の感情を大きく動かさないのは、甚兵衛さんの夫婦関係にもよく表れる。
誰がやっても、この一見激しそうで、実は極めて安定している夫婦関係は描けないのでは。
これもやっぱり、激しいほうが描きやすいのだ。その代わり、聴き手のおかしなスイッチが発動するかもしれない。
強いかみさんに「ウソつくとご飯食べさせないよ」などと言われても、甚兵衛さんは復讐する気は持たない。
300両持って帰って、そらみたことかでもない。たとえ客がそう感じていても、甚兵衛さんは思っていない。
このあたり、火焔太鼓という噺そのものに関する記憶と大幅にズレていて、衝撃を受けた。

「あの目はバカメと言いまして、おつけの実にしかならない」というのは有名なクスグリだが、これは志ん生で止まっていたようだ。
志ん朝は、「あの顔はバカガオと言いまして、夏になると咲いたりなんかしまして」。
クスグリもちゃんと工夫をしてるのだなあ。

というわけでなかなか新鮮でした。

作成者: でっち定吉

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