オウム返しをしたくなる理由、わからなくてもいいじゃないか

オウム返しという言葉、私は落語でしか使わない。
だがオウム返しで検索しても、落語の関連記事は出てこない。世間では、瞬間的に相手の言葉を反復する行為を言う。
落語におけるオウム返しは、世間一般で使う用例からは実は大きく離れているのだった。

落語のオウム返しは、他人の言動(特に、目上の人の見事なふるまい)を真似て、自分でやってみたくなるというもの。
落語においては普遍的な構造であり、その証拠に前座噺によく見られる。
隠居に教わったとおりにやろうとしてしくじるのが、子ほめ、道灌、つる、新聞記事、十徳etc,
前座噺以外でも、青菜や時そば、看板のピン、天災、普段の袴など楽しいオウム返しが無数にある。
しかし、考えてみると実に不思議である。
現実社会で、こんなことしたいと思ったことありますか?
私はありません。
頑張って探してみると、結婚式で聞いた他人のスピーチをパクるようなものだろうか。
ひと昔前の人が銭湯で常磐津や浪曲をうなってみたりするのは、オウムではない。カラオケみたいなもの。
子供がお笑い芸人の一発ギャグを披露するのも、オウムではない。

モノマネはオウム返しとはまるで違う。
コメンテーターのモノマネをするとなると、喋っている中身はあえてデタラメなものにして、口調やいかにもいいそうな考え方だけマネしてギャグにする。
八っつぁんが、個性的な隠居のモノマネをするなんて落語があったら共感されるかもしれない。まあ、ないけど。
オウム返しを用いた新作落語なんてあったかな。皆無ではなかろうが、ごく少ないと思う。
新作に出てこないということは、落語のスタンダードでありながら、笑いのスタンダードではないということだ。

世にないのに、落語では昔から当たり前なのがオウム返し。
落語のオウム返しは失敗が大前提であるからして、うろ覚えのまま、あるいは状況確認の甘いまま、見切り発車する。
そして、やってるほうはウケを狙おうというのではなくて、だいたい大マジメ。

オウム返しが出てきたからって客に簡単に共感されるとは限らない、その証拠は高座自体に見つかる。
オウム返しに入るその理由付けで、悩んでいるらしい演者を結構見かけるなと思って。
わかりやすい例として、もう季節は終わったけども、青菜。
「蔵馬から牛若丸がい出まして、その名を九郎判官」「なら義経にしておけ」
これをセットでやってみたい植木屋。相方も必要だから、オウムの中ではさらに難しい。
植木屋がこれをやりたい理由付けをこしらえるのに、手こずっている噺家さんは結構いる。
なぜ手こずっているか。演者自身が納得していないからだろう。
落語というもの、客が納得するかどうかの前に、演者自身が納得しないと掛けられないのである。
大工調べの大家がかわいそうと思っちゃうと、もうできなくなる。

オウム返しの落語についてこんな演出を採用している場合、手こずっているのだろうと想像する。

  • フレーズを何度も繰り返す(徐々に、面白さが登場人物に沁みてくる)
  • フレーズが仕上がっていないのに、成功した際に得られる特典(周りから尊敬されるとか)に目が行く
  • やってみてえなあ、とつぶやく

最後のは、やってみたい理由を理由で説明しているのだから、まるで無意味な気がするのだけど。
いずれにしても、こんな演出に、スッキリしているものはないと思う。
演者のほうは、おかげでスッキリしたかもしれないが。

オウム返しにおいて、理由付けをしようとするのはムダではないか。
演者がそうしたい理由を想像しつつ、やはりムダな気がしている。

青菜については、植木屋が感心したまま帰宅して、今日こんなことがあったんだよとかみさんに語れば十分な気がする。
亭主が軽口で、お前なんかできねえだろ。それをかみさんが、こちらもごく軽くできるよと言う。
そうこうしているうちに友達がやってくるので、実行してみることにする。これに勝る演出はない気がする。
これで、やってみたくなる理由は不明のままでも、やってみる楽しさを夫婦が抱いたことは間違いなく伝わるのだから。

そもそもオウム返しの失敗もいろいろである。
青菜の場合、かみさんが失敗さえしなかったら、亭主としては満足のデキだったわけだ。
時そばは、最後だけ真似すればいいのに、シチュエーションの違う前日の違う屋台での様子を再現してひどい目に遭う。
つるや新聞記事なんかは、そもそもちゃんと覚えていない。
看板のピンは、ひとえに不運。
普段の袴なんかは、もうなにからなにまでできてない。
猫久は、実はさむらいのマネをする亭主がおかしいだけで、なんと失敗はしていないのだった。
失敗方法は実にバリエーションに富んでいる。
ということはだ。成功方法(やりたい理由)も千差万別なのではないか。
演者が納得したいがために、ひとつを選んでも仕方ない気がする。

最初から「そういうもの」としてやったら、それでいいんじゃなかろうか? 私はそう思う。
柳家喬太郎師は、そうやっている気がする。落語なんだから。

作成者: でっち定吉

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