三遊亭竜楽

平日昼間に時間ができた。
どこかの寄席に行こうと思ったが、「初席」同様、料金の無駄に高い「二之席」には気が進まない。
東京かわら版で円楽党の「亀戸梅屋敷寄席」を見つけたので、恐る恐る亀戸まで出向いてみた。料金は「千円」。安いですね。
円楽党の席は、私にとってはアウェイ感満載である。
この日の主任は三遊亭竜楽師。あいにく名前しか知らない噺家さんだ。
名前を知っているのは、竜楽師がCDを出している噺家だから。名前以外知らないのは、TVで一切拝見したことがないから。
千円とはいえ、ひどい席だったらさすがに嫌だ。きっと実力者に違いない、竜楽師だけが頼りである。

当ブログでは、ホール落語とは違う「寄席の魅力」を、語っているのだが、「落語協会の魅力」を語ることになってしまうところもある。たまに芸協。
円楽党については、その実情をほとんど知らない。気になる噺家さんもいるのだけど。
円楽党の「寄席」といえるものに出向いたことも、過去に一度あったくらい。しかも、お江戸日本橋亭での、立川流と合同の席。
円楽党のホームグラウンド両国も、あまり好きでない「夜席」のため未見である。

「亀戸梅屋敷寄席」の会場は、亀戸駅の北にある道の駅「亀戸梅屋敷」内の、小綺麗な集会室。椅子席である。
前座を含め、円楽党の噺家さんだけで五席。
ギリギリ「つ離れ」はしていた。平日昼間だから当然だが、お客はお年寄りばかり。
意外といっては大変失礼だが、落語に詳しそうなお客さんたち。噺家さんが出てきても手を叩かない。頭を下げてから拍手する。
「声の大きい元気な前座さん」「勢いを感じる、成り立ての二ツ目さん」「中堅どころの、本当に普通の噺家さん」の古典落語が聴けた。
クイツキに出てきた普通の噺家さんのマクラによれば、この日は大入りだったそうだ。普段は「つ離れ」しないのか。だからいつまで続くか心配だと。
それはそうと、髪の毛ぼさぼさの薄汚い噺家が出てきたのには驚いた。「風邪気味」だと話していたが、感染りそうで嫌だった。
こういう人は、落語協会や芸協にはいませんね。いちばん汚くて百栄師だもの。百栄師だって本当に汚らしいわけじゃないけど。
薄汚い噺家さん、上手いとは思わないが、味はある芸ではあった。でも、ナリもきちんとして欲しいなあ。

4人の噺を聴いたが、まだ千円分の元を取った気にはなっていない。そこに、トリの竜楽師が黒紋付で登場。
竜楽師、それまでと違う空気をまとって登場。
非常にナリが綺麗である。頭もビシッと刈りこんで。
世界各地で、現地の言語で落語を披露しているマクラを振る。自慢げになりかねない内容なのに、まったく嫌味がない。
師の腰の低さがうかがえる。
そして相撲人情噺の「阿武松」へ。

***

穴場の亀戸で拝見した三遊亭竜楽師。演目は「阿武松」。

とても足腰の強い芸だという印象。
客におもねることはなく、目の前の笑いを取りにもいかない。といって客を放置するようなことはない。
「阿武松」という噺、大食いの力士が破門されて死のうとするストーリーだ。泣かせる方向にでも持っていけば、客はとりあえず満足を得るかもしれない。だが竜楽師、そんなふうに安易には料理しない。
滑稽噺でなくても、そこは落語。
もともとどこを切っても楽しさに溢れた噺なのである。竜楽師、一切のケレン味を排して、終始楽しく語る。
といって、「楽しそうに語る」のではなく、客に噺の楽しさをじんわり届けるのである。
芯の一本通ったブレない芸。

こういう芸、「本寸法」と定義すると、一瞬わかったような気になる。かもしれない。
だがこういう、一見的確なようで中身を語っていないマジックワードは排除することにしている。「本寸法」と同様、「いぶし銀」も使いたくない。
しかしそうすると、既存の落語ボキャブラリーの中にはもう言葉がない。表現できないのがもどかしい。
だが、表現できない領域にこそ、落語の楽しさが潜んでいるのかもしれない。

いいなあ、竜楽師。
初めて聴く噺家さんが、必要以上によく見えてしまうということはある。
堀井憲一郎氏は、「たまたま奇跡的な一発に出逢ってしまったゆえに、さして上手くない噺家を追いかけ続ける悲劇」について記している。
私にも経験のあるところだ。幻滅しなければ悲劇にはならないから別に構わないのだが、そういう出逢いも確かにある。
円楽党という、私にとって特殊な空間なのも危ない。
ただ今の私、そんなに落語に対する審美眼は低くないと思うのだ。自分の耳を信じれば、竜楽師は間違いなく一流の噺家さんだと思う。

噺家さんに対してはだいたい、「あの点は素晴らしいがあの点はもうひとつ」という、まだらの評価を持つ。それが普通。
結構売れている噺家さんにだって、感じないわけではないのだ。
だが竜楽師について、「もっとこうだったらいいのに」は感じなかった。
落語協会のメンバーと比較すると、入船亭扇辰師が、キャリアや芸風、実力においていちばん近いのではないだろうか。
またぜひ聴きにいきたいですね。

とりあえず、いつ現場で出逢えるかわからないので、竜楽師のCDを2枚買いました。

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竜楽師匠のCD2枚、1と2が届きました。
収録作品は、1が「堪忍袋」「井戸の茶碗」。2が「厩火事」「くしゃみ講釈」。

早速繰り返し聴いております。私もすっかりベタ惚れ。
まだまだ、上手い噺家さんが世にいるものだ。
と思う一方、私が知らないが上手い噺家さんなど、上方も含めてほとんどいない気もすぐにしてくる。竜楽師の場合、活躍するフィールドがちょっと違うため、今まで巡り合わなかったのだろうから。

竜楽師は、なんといっても声がいい。ハリのある声で、客をしびらす。
マクラは比較的低めの声で。本編に入ると、声を一段張り上げる。どちらもいい声だが、高い声は特に人を高揚させる。
変拍子を多用した心地よく、緊張感に満ちた節回しを、綺麗な声で客に届ける。まさに歌であり、ジャズである。
喋り方ひとつで、枝雀のいう「緊張と緩和」を実践している落語。ぎゅー、ふわっ、ぎゅー、ふわっという感じ。
なんのこっちゃ。でも、聴いたらわかっていただけるように思う。
ちなみに、女の声と男の声とを、どちらも高い声で喋ってしっかり描き分けるという、落語の技術的にも見本のような芸だ。

竜楽師の落語、「客を笑わせる」というタスクから解放されている。これはすごいことだと思う。
滑稽噺を喋っているのに、「笑わせる必要をもともと有していない」という噺家さん、他にいそうでいない。柳家小満ん師や、林家正雀師の滑稽噺にこういう雰囲気があるものの、客はそもそも両師に滑稽噺を期待しているわけではない。
滑稽噺で無理に笑いを取ろうとしない、欲しがらないタイプの噺家さんはいる。当ブログでも紹介した、当代柳家小せん師とか。
竜楽師の噺にもまた、クスグリは少ない。噺そのものの流れと、喋りで客を高揚させることを非常に大事にしている。
でもクスグリの少ない竜楽師の噺、無理に笑わせにいかないのに、客は勝手に笑うのである。

若手によくいるが、ベテランにもいる、困ったタイプの噺家がある。
渾身のギャグ(客観的に見たら渾身でもなんでもない)を客にぶつけ蹴られたあと、噺家自身が、でなく客のほうがいたたまれなくなってしまうひと。
そんなことなら、淡々としゃべってくれたほうが、まだ害がない。
こういう噺家に遭うと、つらくなりたくないので、初めから聴くのを避けようと思うようになる。
要は足腰が弱いのだろう。高座でしっかり客に立ち向かえていないのだ。
そんな噺家がいるいっぽう、竜楽師のような、強靭な足腰を持ち、鉄の心臓を持ったタフな噺家さんがいる。客にしっかり立ち向かっているから、ウケるウケないの区別がそもそも無意味。客は一瞬でもつらくなることはないのである。
そうすると、非常に安心して噺を聴くことができる。
母の優しさに包まれ、父の厳しさに背筋をただし、これを同時に味わえるのが竜楽師の落語。
といっても楽しくて、現にしっかりウケている。

当ブログでは、しばしば批判の対象にしている柳家小三治師の芸、言ってることとやってることとが違うという疑問を持っている。
落語なんてえもの、噺家なんてえものは矛盾の塊だ、と言ってしまえばおしまいなのだが。
でも小三治師が語っている「笑わせようとしない」「思いを胸に秘めて外に出さない」なんていう芸のありようは、竜楽師の芸を指しているとするなら、ドンピシャである。

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繰り返し竜楽師のCDを聴く。
とにかく気持ちがいい。BGMとして掛けっぱなしで聴くこともできる一方、真剣に耳を傾けてみれば、直ちにその語りに引き込まれる。
よくできた音楽と一緒だ。

クスグリに頼らず、噺の骨格を大事に語る竜楽師であるが、その骨格自体は多くのアレンジが加わったものである。
かなり工夫をしている噺を、さりげなく提供するという江戸前の職人らしい仕事。
「堪忍袋」では、サゲを大胆に変え、「くしゃみ講釈」では、八百屋に胡椒を買いにいく場面を大胆に変え、悋気やみの八百屋のおかみさんを登場させている。
噺の創造力の非常に高い人だと思う。

また、そのアレンジは、単に変えたかったから変えてみたというようなものではない。いつも聴く噺とちょっと違うな、という満足を客に与えるレベルではない。
自身の語りたい古典落語について徹底的に迫り、その噺がいちばん活きるような改変を加えたものである。
「教わった通りに古典落語を語る、これが伝統」と思い込んでいるファンもいなくはない。下手すると、噺家がそう思っていたりしなくもない。
もちろんそんなものではない。噺の工夫というもの、古典落語なら新作落語より手間がかからないというものではない。

「堪忍袋」のスタイルは、笑福亭鶴瓶師のものだそうで、元を聴いていないからどこまでが竜楽師のアレンジかわからない。それでも、鶴瓶版を教わろうと思う了見が、すでに噺家としての大胆な工夫の一端ではないだろうか。
「夫婦仲がよすぎて喧嘩している」ことがよく伝わってくるのは竜楽師ならではだ。内容もとても気持ちがいい。
楽しい噺だがあまり聴かない。TVでも、三遊亭遊雀師のもの(途中まで)を聴いたくらい。これも面白かったが、実は竜楽師から教わったものだったとは。

「くしゃみ講釈」では通常、買いに行くもの「胡椒」を思い出すために、覗きからくりを持ち出すのがウケどころだが、替わりに、悋気やみの八百屋のカミさんを入れたのは、師自身のアレンジ。
上方と同じように覗きからくりをしつこくやると、江戸には合わないということだそうだ。
で、大胆に差し替えたこれが、オリジナル以上にウケている。

「厩火事」は、当ブログでも一度取り上げたのだが、私も嫌いな噺。嫌いだが、なくなるとちょっと惜しいと認識している噺。
某女流脚本家が大っ嫌いな噺だ、とブックレットに書いてあるが、確か橋田寿賀子のことであったと思う。
それを意識して、お咲さんを可愛らしく描くことに努めているとのこと。確かに、非常に愛らしいキャラクター造型になっている。
この「厩火事」なら、全然気にならない。
落語たるもの、キャラクター造型は非常に大事だが、逆に一生懸命演じると「ヒモ男」と「寄生される女」という、変なリアル感が特に出やすい噺だと思う。
竜楽師、リアルな領域までは踏み出さない。あくまでも、架空のおはなしの架空のキャラクターだというところで止めている。といって、マンガっぽい描き方でもないのだけど。
客を嫌がらせない、大変なセンスだと思う。

残った1枚のCDも買いたいし、amazonのダウンロードも聴くつもりだ。
久々に、なにも知らない状態から、ひとりの噺家にハマりました。

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。