9日のKITTEグランシェ落語会を最後に、落語を聴きにいっていない。
多忙を極めているというほどでもないので(極めたいのだが)、普段の私ならちょくちょく出かけそうだ。
だが、それほど強く行きたいという気にもなっていない。
別に落語に飽きたのではない。
ここ数日ずっと柳家喬太郎師匠を繰り返し聴いているが、それが楽しくて仕方ないのである。
師の落語はずっと聴いている。なのにいきなりここに来てどうしたことか。
喬太郎師への思いが飽和点を突き抜け、未知の領域に到達したようである。
こうした状態だと、ブログのネタを探しに落語を聴きにいくような、ある種本末転倒な真似などしなくていい。
ちなみに次に出かける落語は、この師匠が主任の鈴本10月上席、今日から始まる席と決めている。
そちらのレビューを始めるまでは、柳家喬太郎シリーズを続けます。
喬太郎師の落語は、テレビで放送したものを聴くことが多いのだが、今回はCDから。
「柳家喬太郎落語集アナザーサイド」4巻から、「猫屏風」。
アナザーサイドシリーズは、原作のある新作落語をCD化したものである。
喬太郎師の活躍ジャンルは大変広いが、形式的に分類すると次のとおり。
- 古典落語
- 自作新作落語
- 原作のある新作落語
- 復刻落語
「猫屏風」は、原作のある新作落語。
むかしむかしの時代が舞台。原作は小泉八雲。
ただ新作落語であることを超えて、ひとつのジャンルを形成しているように思う。
「田能久」とか「茄子娘」など、民話調の古典落語というものがある。作り上げたのは喬太郎師だが、ここに仲間入りする資格のある落語だと思うのである。
だから他の人にも掛けて欲しいものだ。
小泉八雲原作には他に、同じCDに収録された「雉子政談」「梅津忠兵衛」などがある。
そして喬太郎師には、上記各ジャンルを問わない分類もある。
人情噺から滑稽噺、もっと振り切ったバカ噺までいろいろ。
猫屏風は、「楽しい人情噺」という雰囲気。
「笑い」「泣き」に分類されない情緒が漂う。この情緒が、先に挙げた「茄子娘」あたりに通じる気がする。
さすが、素人時代からの落語マニアである喬太郎師ならではの作品だと思う。新作落語の天才・三遊亭白鳥師をしても、こんな噺は決して作れない。
落語を知り尽くしている人だからこそ、落語と無関係の小泉八雲からこの噺が作れてしまうのだ。
このように、誰も掛けていない噺の場合、噺へのアプローチの仕方は無限に存在する。
恐怖譚にしてもいいし、ギャグ一杯の噺にしてもいい。人情噺のムードを濃厚にしてもいい。
だが、あらゆる可能性の中からもっとも適切なアプローチを見つける喬太郎師。
この猫屏風、ギャグはほとんど入れていないし、笑いも目的にもしないのに、終始楽しい一席。
修行に身が入らず、猫の絵ばかりのべつ描いている小坊主さん。お仕置きも利かない。
外の世界を見にいきなさいと追われるように寺を出て、旅に出る。
隣村の無住の寺で一夜を明かすが、そこは村のものみなが恐れる化け物屋敷。食い殺されると思った小坊主さんだが、屏風に描きまくった猫の絵が夜中に抜け出て、化け物を退治する。
めでたしめでたし。実にシンプルな噺。