池袋演芸場5「落語協会新作台本まつり」

池袋演芸場「落語協会新作台本まつり」に行ってまいりました。
池袋は私のホームグラウンドです。

前座以外、みんな新作落語という会。
新作落語は大好きだが、それでも全部新作でなくてもいいと思ったりもしたのだが。
いや~~楽しかったです。ちょっと楽しすぎました。疲れてぐったりしています。
まったく気を抜くところがないんだもん。
トップバッター、二ツ目の左吉さんからずっと笑わせてくれました。

寄席が好きなのは、ひとつには色物さんが頭をリセットしてくれたりして、疲れなくていいところ。
なのだが、今日は本当に疲れました。
仲入りが終わってもリセットできない。客の頭をリセットさせるべきヒザ前の正雀師も、確かに笑わせはしないけど、思わず食い入ってしまう噺を掛けて、そのまま小ゑん師へ。
お目当てまでにクタクタになってしまいました。

あまりにもつまらない噺家さんが出ると、続いて二席くらい引きずったりする。
だが、こんなに激しい席に出逢うと、特に面白くもつまらなくもないという噺家さんは、非常にいい仕事をしているのだなあと改めて痛感した。
こんなに笑わせられたら、トリまで持たない。
フラフラになりながら聴いた小ゑん師匠は面白かったですけども。

面白すぎて面白すぎて、ちょっと不満を感じる席でした。贅沢ですね。

彦星  /  つる
左吉  /  ロックンロール園長
究斗  / ドレミの歌
丈二  / 1パーミルの恋人
のだゆき
小せん / ガーコン(上)
円丈  / 失われたキンタマ
(仲入り)
駒次  / 鉄道戦国絵巻
正雀  / (演題不明)
ダーク広和
小ゑん / 吉田課長(ネタ出し)

正雀師の噺だけ、調べたがわからなくて残念。
吉原の花魁を身請けしたものの逃げられてしまう若旦那の噺である。大川から身投げするが助かるという。
まあ、いずれ判明するだろう。
ネタ帳披露する習慣にはしてなかったんだけどな。

***

噺家さんがマクラから本編に入ったとき、すかさず演題を記載するファンが多い。
これに対する、噺家さんサイドからのちょっとした苦言を耳にすることがある。白酒師や百栄師など、皮肉なマクラを語っている。
今回は、丈二師と小ゑん師のふたりから、この行為に関する発言があったので、先にそのことについて。

丈二師、「あれ何書いてるんです? 演題ですか? 俺は人より早くわかったぜって自慢したいんですか? でも、今じゃなくてよくありません? 落語に入るときに、気配がグッと落ちるんですよ」と。
字面にすると嫌味っぽいが、もうちょっと口調は柔らかくて、「気配を落とされるオレってトホホ」というオブラートにくるんである。
私自身は、そんなファンがいても、見ていないので気にはならない。でも、噺家さんには気になるらしい。
「俺ってすごい」と思うのは勝手だけど、その強い自意識を、高座の噺家さんに返す必要は、確かに全然ないですね。

トリの小ゑん師も、メモを広げてネタを記載しているファンへの皮肉から、いつものマクラへ。
「ICレコーダーで録音するファンに録っちゃダメだよと注意したら、『違います。師匠が出たので切ったんです』、バカやろう、客だったらなにやってもいいってもんじゃないんだ」
これから、さらにふくらましていた。特に、ブロガーについて。
ファンのブログを見ていたら、五つ星満点で、高座の出来を採点しているものがある。
その日の寄席の評価は全般的に高めであったが、小ゑん師の評価自体は、星三つ。
「前回と同じネタだったから」が理由。
「あんたひとりのためにやってるんじゃないんだ!」と怒りの小ゑん師。

星を付けるようなブログは、私も大嫌いだ。憎しみすら覚える。
「噺家さんに失礼」というのを抜きにすれば、そもそもなにを書いたって自由だ。批判を無条件に許さない、などというつもりは毛頭ない。
だが、星を付けようなんて了見で落語を聴いているような人に、まともな見識がそもそも期待できるのか?
なにを根拠に星を付けているのか。ほとんど暴力である。

小ゑん師のツイッター、いつも拝見しているが、その見識の高さには常に大いなる敬意を払っている。
万一、私のブログが小ゑん師の神経に触るようなことがあったとしたら、ブログ止めてしまうと思う。
まあ、そこまでの影響力はまだないけども。

ちなみにここまで書いたネタ、「記憶」のみを元に起こしているのである。メモを広げて書き写したものではない。
ひと様のブログを見ていると、マクラからクスグリまで詳細な内容が書かれているものがある。録音しているとしか思えない。
または、噺の最中にせっせと筆を走らせているのか。
そこまでしてブログに載せることに、どれだけの意味があるのか?
覚えていられなかったのなら、その内容は覚えておく必要がなかったものだと思う。
ブログをやることで世間に伝えたいのは、「書き手のフィルターを通して捉えた落語の実態」だと思うのだ。書き手のフィルターを通さず、ダイレクトに演者のありようを書き起こしてしまうブログに、書き手の存在意義があるのでしょうか。
自分のフィルターを通さないのに、書き手の自意識だけ混ざっているだけにタチが悪いと思う。

マナーといえば、この日は携帯が三度鳴っていた。うち一度はマナーモードだけど振動音大きめ。
携帯鳴らす客は年寄りと相場が決まっていて、実際年寄りが鳴らしていたが、今回はお母さんと来ていた小学生の坊やも鳴らしていた。
浅草じゃないんだ、ここは。
いや、浅草でもダメだけど。
うちの坊主も、学校支給の携帯を持っている。保護者は気を付けないといけませんな。
ちなみに私も、小ゑんファンの息子を連れてくるつもりだったのだが、彼は友達と遊ぶほうを選びました。
それはそうと、落語を聴きにくる母と息子って、なんかいいですね。

***

さて、本題。平日の池袋、7割程度の入り。
今回は、演者の順番に進めてみます。
入場したらすでに前座の林家彦星さんが「つる」を語っていた。
この日のヒザ前、正雀師匠の弟子。入門して間がないらしい。
正雀師の弟子には彦丸師がいて、「彦」の一字を付けるのは前例があるのだが、師匠から一文字取るのが普通なので変わった名づけ方ではある。もちろん、彦六の「彦」なんでしょうが。
海老名家に配慮しているのだろう。
それはそうと、いや、びっくりする前座だった。
完全なる棒読みと、つっかえつつの落語。
ここまで素人っぽい前座さん、初めて見た気がする。でもやたら堂々としていて声量もある。
下手過ぎて、なんだか嬉しくなってしまった。
また池袋に来れば聴けるかもしれない。間違いなく、急速に上手くなって噺家らしく変わっていくわけだ。
そう思うと非常に楽しみである。

トップバッターは、二ツ目の初音家左吉さん。
彼の過去の高座はまるで覚えていないのだが、「上手い」という印象だけはなぜか残っている。
「人気急上昇中の初音家左吉です」という挨拶は不要と思うけど。
この日の「ロックンロール園長」、やたら上手く、面白い。自作なのか応募作品なのか、それは知らない。
「新作派」に分類される噺家さんの中にも、真打になってもなお、素人っぽい噺家さんがいる。
素人っぽさが魅力になっている人はいいのだけど、単に素人っぽいのは困る。
そんな人のいる一方、本来古典派だと思う左吉さん、新作が完全に板についている。これはなかなかすごいことだと思う。
古典メインの人が新作を掛けるとき、急に変な喋りになってしまうことがある。だが、左吉さん、「ロックで保育園を変える」園長という、古典に絶対ない世界観の噺を見事に演じ切っていた。圧倒的な演技力。
「もしも保育園の園長がロックンローラーだったら」という噺だが、この手の日常をちょっと捻った程度の新作落語というのはやたらとある。当代桂文枝師の創作落語も、大部分はこんなのだ。
だけど、ネタの飛躍度がどうのこうのではない、そんなものを問題にしない「落語」「話芸」としての魅力がビシビシ伝わってきたのである。
この先が楽しみだ。左吉さん、柳家喬太郎師のような二刀流になるかもしれないじゃないか。
こんな二つ目の浅い出番から笑わされたおかげで、この日はすっかり疲労が蓄積していったのである。本当、困るよ。

***

続いて、左吉が降りるのが早すぎると愚痴りながら三遊亭究斗師。
究斗師の「ミュージカル落語」を聴きにいったことはないけども、寄席でこの人に出逢うと、ミュージカル好きの私はやたら嬉しい。
今日もまた、落語好きでミュージカル好きという人などそうそういないアウェイ環境の中、熱唱で大いにウケていた。
単に「歌が上手い」のではなくて本物の歌い手さんですからね。
客席に負のシグナルを発信しないこういう噺家さんは、私の大嫌いな「いたたまれなさ」を生み出すことがない。寄席にとっては大変な戦力だと思う。
色物の要素も兼ね備えている噺家さんだ。
色物さんであれば通常リラックスさせてくれるのだが、でも究斗師の落語、やはり面白いので、今日の笑い疲れがさらに蓄積されていく。

究斗師も早く降りてきてしまったとボヤキながら三遊亭丈二師。
丈二師、喬太郎師のTVに呼ばれて披露する高座は実に楽しい。新作落語の才能溢れる噺家さんなのに、寄席で観て面白かったことが正直ない。特に古典だとがっかりさせられる。
マクラが相も変わらずなのもどうなのか。
以前新宿で聴いたとき、例によって「私、丈二の前はひどい名前だったんですよ」のマクラ。これに、わけわからない客が「天どん」と声を掛けた。
「違うよ」でもなんでもなにか返せばいいのに、一瞬固まったまま「小田原丈だったんですよ」とマクラを続けてしまった。
意外とアドリブ弱いんだなあと思った。ま、変な声を掛ける客がいけないのではあるが。
でも今日は、期せずして時間が長くなってしまったためか、定番マクラのあと、一昨日ご紹介した客への苦言マクラに入った。
私としては快哉を叫んだのである。
そこから「1パーミルの恋人」。
タイトルの意味が明らかになるサゲまでやると、展開が無理矢理でちょっとしんどい噺だと認識している。先日のTVで出したときもそうだったが、この日もキリのいいところで切っていた。
サゲまではやらないことにしたのか。そのほうがずっと落語らしくまとまっていていい噺だと思う。
この日の、新作好きの客には大いにウケておりました。
私も満足。

のだゆきさんは久々にお見かけした。キャラ変わりましたかね? 寄席に出たての頃は、もう少しとんがった芸風だった気がする。
寄席というところは、とんがっている芸風を丸く変えてしまうパワーがあると思う。それでいいと思うのです。
そういうパワーに抗って、毒を吐き続けるWモアモア(芸協)などの師匠もいるけれど。
マナーモードで鳴る携帯バイブにコメント。「電話が来ていいですね。あたしなんか仕事の電話全然来ないんですよお」。
客に恥をかかせないのは偉いが、客ももっと気を遣いましょう

***

魅惑の微笑み、柳家小せん師登場。
小せん師、新作って一体なにをやるのかなと思ったが、昭和歌謡史の漫談だ。
実に芸の幅の広い人である。
川柳師匠のご存じ「ガーコン」の前時代史にあたるもののようだ。だから「ガーコン(上)」。
いや、これが面白い。まず、なんといっても歌が上手い。
小せん師、私より若いのだけど、枯れた魅力が古い歌にぴったりである。
しっかり笑いも多い。圓生のモノマネで語る第二次大戦前夜は実に爆笑ものであった。
高座がハネた後の、客席のざわざわが半端なかったです。爆笑が止まらないという種類のざわめきではなく、もっと地味ではあるが、ふつふつと沸いていた。
皆さん、実にいいものを観たと思っていらっしゃるのだろう。

気になったのが、小せん師が客の「中手」をもらう隙を見せないこと。
いいノドでいい歌を披露しているのである。客も当然に拍手をしたいではないか。しかし、歌い終わるとスッと次のエピソードに移り、客に手を叩く間を与えない。
客に笑いを強要する川柳師とはえらい違いだ。
このスタイル、柳亭市馬師と同じである。市馬師の師匠であり、小せん師の大師匠である先代小さんに、「中手をもらうために芸をクサくやるな」という教えがある。それを忠実に守っているものかと思う。
先代小さんをあがめる私も、その美学は尊重する。美学というか、中手によって噺が壊れてしまうことを避けたいようだ。
でも、聴いているほうは深く感心しているのだ。義理でない、心からの拍手を噺家さんに届けたい。
隙を見て私から手を叩いたのだが、さすがに他の客も思うところは同じで、拍手の嵐。小せん師、軽く「いや、どうも」くらいの返し。
中手を欲しがらないストイックな噺家さんには迷惑だったかもしれない。
でも、客の「手を叩きたい」ストレスメーターが徐々に溜まっていく高座というのも、客と演者との調和を重んじると、どうなのかと思うのである。
いろいろ考えさせられます。客が高座をコントロールしようなんて、おこがましいとも思うし。

書見台が登場して、仲入り前を務める三遊亭円丈師登場。
台本をカンニングではなく堂々と参照するようになり、釈台はやめて小さい書見台になったらしい。足が悪い噺家さんとは違うので。
認知症になりかけているというマクラを振る。ちょっとだけ痛々しいが、でもすがすがしい。
師が新作を作り始めた頃の古い古い作品とのことで「失われたキンタマ」。「円丈落語全集1」にも掲載されていない噺。
ペンキ塗りたてのベンチに下半身むき出しで座ってしまった男がキンタマを剥がしてしまい、移植を受けるという実にくだらない噺。
噺を覚えられなくなった老噺家が、上下振るのを中断して台本を読み上げながら、「キンタマ」を連呼する、
なんなのだ、このシュールな高座。
脱線して「えっとどこまで行ったっけ」とまた本を見る。
信じられない光景が繰り広げられているが、でもなんだかやたら面白い。
高座の光景そのものが面白い。それをまた、円丈師もわかっている。
円丈師、間違いなく、前人未到の新たな領域に歩み出しつつある。この高座をよしとしない人ももちろんいるでしょうが。

盛り上がりに盛り上がった池袋、この後仲入り休憩でも、蓄積した笑い疲れが抜けませんでした。

***

幕が開いてクイツキの古今亭駒次さん。
二ツ目さんでこの出番は立派である。
落語協会は、この春に五人、秋に三人の真打昇進があるが、駒次さんはその次の筆頭。
私は二ツ目さんの現在の姿についてはそれほど知らないのだが、駒次さんだけは、お目当てでもありよく高座に出逢う。
今日は、一度生で聴きたかった「鉄道戦国絵巻」。うちの息子はテツなので、来ていたらさぞ喜んだろう。
東急電鉄から離脱してJRに与した東横線と、残された他の東急線とが戦いを繰り広げる噺である。そこに京成や西武新宿線、東武に京急、さらには新幹線「ひかりの君」が絡んで大戦争になるという。
「電車」を擬人化したのではなく、「路線」を擬人化した傑作。
こんな噺も、この日の客はすんなり受け入れ大ウケ。
助っ人の「西武新宿線」が兄上の「西武池袋線」に「レッド・アロー」で射られて無念の討ち死にというギャグ、ウケないけどどうしても言いたいネタなのだと「鉄道落語」に書いてある。
噺家さん、古典・新作を問わず、「このセリフが言いたくてこの噺やってる」ということがよくあるのである。
だが、「レッドアロー」しっかりウケていた。池袋だからというのもあろうが。
このバカバカしい噺を堂々と語る駒次さんは偉い。
ただ、終盤ちょっと失速した気がする。駒次さんのせいというより、この日の客、私も含めてすでに疲れているのである。

小ゑん師のツイッターに、「寄席に来てこの噺の演目が知りたいなんてことは思ったことがないね」と小里ん師と同意したことが書かれていた。
確かに、演題なんてのは内輪の符丁に過ぎない。
ただ、これに関していえば、演目を知りたいファンの肩を持ちたい。
魔法使いが、名前を知られて魔力が失せてしまうのとはわけが違うと思う。演題を知るというとっかかりがないと、噺を肚に収めることもできない。
「肚ン中イ収める必要なんてねえよ。とっとと忘れちめえ」と言われれば、確かにそれもそうだけど・・・
というわけで、久々にわからないタイトルの噺を林家正雀師で聴いた。
新作落語については、演題がわからなくてもそんなには気にしない。ただ、正雀師の噺に関してはマゲもの、古典の設定なので、古典落語の演題がわからないのと同様に気持ちが悪い。
まあ、いずれわかるだろう。
正雀師は、ヒザ前という難しいポジションの非常に上手い人である。
今日の大爆笑の流れをガラッと変えて、地味な噺。それで客をリセットして、トリの師匠につなぐのがヒザ前の役割。
だが、もちろんつまらない噺ではないのである。知らない噺であるがゆえに、この先どうなるのか思わず食い入ってしまう。
おかげで疲労困憊である。

***

池袋のネタを1週間続けてしまいました。
実に密度の濃い席でした。

気を抜くところがついにないまま、ヒザのマジック、ダーク広和さんを挟んでようやくトリの小ゑん師。ネタ出しの「吉田課長」。
アメリカ帰りのサラリーマンのお父さんが、日本で金髪のカツラを被って会社に通おうとする噺。
まあ、言ったらそれだけの噺。クスグリだけでできているような中身のない噺であるが、やたら面白い。
なるほど、応募作品というのはこうやって作るんですね。などと言ってみます。まったくよくわかっていませんが。
小ゑん師匠、本当にお忙しそう。ずいぶんと寄席の代演に入っているようである。
寄席の代演は、ご本人と席亭と、協会の意思が一致しないと実現しない(と思う)。それだけ、いま寄席で歓迎されている師匠だ。
その間に、「鉄道落語会」を開いたり、今日の新宿末広亭余一会で円丈師と二人会を務めたり。
彦いち師や白鳥師と会を開いたりもしている。私が行けているのは本当に一部である。

「落語」の好きな人で小ゑん師嫌いという人はいるのだろうか。
師の新作は、古典落語と相入れないものではない。「落語」の風が常に吹いている。
そしてその作品も、日常からちょっと視点を変えてみたという程度の作品ではなく、日常を裏返してしまう作品が多い。
この応募作品「吉田課長」も、帰国してからはじめて出社するお父さんと、ヅラであることに気を遣う周囲とのやり取りだけでは、普通の新作落語なのである。そんな新作もたくさんあるし、それがつまらないということではない。
だが、なぜかカツラが「金髪」だというあたりが、小ゑん師の落語らしいと思う。

東京かわら版の4月号を買った。24日にもう出ている。池袋演芸場は、かわら版売っているくせに「かわら版割引」がないのが悲しいところである。
ともかく、チェックしたら小ゑん師、また黒門亭でネタ出ししている。円丈作品の「燃えよジジババ」。また行かなければなるまい。

痛いアゴをさすりながら池袋を出てきました。比喩ではないです。
この「新作落語台本まつり」にもう1日来たいとは、もう思いませんでした。

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。