思い立って先代・当代金原亭馬生の「笠碁」を聴き直してみた。
これらも結構な一席である。劇的に描こうとしない点については、柳家の師匠とわりと似たムード。
金原亭の笠碁を聴き返したところ、一之輔師のものも、明らかにこちらから来たことが判明した。
嫁のおっぱいだけではなく、喧嘩のどさくさで忘れたたばこ入れを噺の重要な小道具として使っている。これは柳家にはないところ。
菅笠の、埃だらけの描写もしっかり。暮れの大掃除の手伝いのくだりも入る。
対照的に、過去の借金の話や、番頭の描写はサラッとしている。
一から創造してきたかのような一之輔師の落語だが、意外とその原型がわかるのであった。当代馬生師から教わったのだろうか。
見事な馬生師弟の一席をそれぞれ聴き、一之輔師に戻ると、その個性が勝手に浮かび上がってきて面白い。
一之輔師の隠居の造型は、大人のそれではない。
大人の振る舞いが求められるシーンにおいてすら、ずいぶん子供じみているのだ。
もっとも、この描写自体が一之輔オリジナルというわけではない。子供じみた隠居の描写、すでに金原亭にある。そもそも笠碁という噺自体が、そういうテーマを扱っている。
だが、本当に年寄りを子供じみて描く演出、実は大変難しい。
隠居にくせに子供じみた人の喧嘩を散々見せられたとき、本当に客は、仲直りして欲しいと素直に思う?
隠居を子供じみて描いたときの、ありそうな失敗例を別の古典落語から思い起こす。「寝床」の旦那。
誰の寝床が露骨に失敗していると、具体的な例を出すわけではない。多くの寝床において、共通して持っている残念な点があると思うのだ。
寝床の旦那の子供じみた性格を強調していくと、ただのパワハラ譚になりかねない。ギャグに笑わせてもらっても、後味がイヤな落語になりかねない。
寝床みたいに、ギャグを入れやすい落語こそ、流された演出をすると危険なのだ。
では、笠碁の隠居は?
どうして先人の笠碁は、このような失敗に陥らないのか。
それは、古典落語の登場人物を記号として描いているから。ことさらに、二人の個性を強く描く必要はない。
柳家の笠碁では「強情」「わがまま」などと互いの個性を評しているが、これすらまた、記号の一部に過ぎない。
記号的な人物が噺に登場していると、客は好きなようにこれを手に取って眺めることができる。
私は小燕枝師の笠碁の日常性に惹かれた。だが、どう解釈したって構わないように作ってある以上、客が勝手にそこに、濃密な人間関係の再生ドラマを読み取ることも許される。
ああ、こんな人いるいる。義理のお父さんがこういう人だったなと、ほほえましく眺めるのも客の自由。
先人の笠碁と比較し、一之輔師の描く隠居、ちっとも記号ではない。
それなのに、一之輔師の笠碁において、客が噺にのめり込むように作ってあるのはなぜか。それは、このふたりの隠居が、とても魅力的だからである。
一之輔師の登場人物はとても立体的に作ってある。
こんなところからも、この人の噺が新作落語のステージに載っているという、私の説がまたひとつ裏付けられるではないか。新作落語は、登場人物が記号だと噺がぼやけてしまう。
一之輔師がしばしば、登場人物の声を裏返しながらしゃべるあたりにも、新作ぽさが感じられるのである。
そして新作落語においては、欠点を持って描かれる骨太の登場人物たち、とても魅力的である。三遊亭白鳥師など思い起こせば。
そして、一之輔師の古典落語もまたそうなのだ。
欠点を魅力的に描くのは、細かい技術よりも肚の持ちようにあるのではではないかと思う。演者がこの、笠碁の爺さんたちのことが好きなら、ちゃんと魅力的になるのだ。
一之輔師の噺に迫っているうち、例によって長くなってきたな。
でも、あと一回で終える。つもり。
続きます。