柳家小のぶ「粗忽長屋」

当ブログは毎日更新しているので、毎日、ブログのアクセス解析もしている。これが楽しみである。
特に、ブログに来た「検索ワード」を確認するのは楽しい。
検索ワードを実際に使ってみると、当ブログの記事がトップに出てくることがある。実に嬉しいです。
「演者+演題」だとトップに来やすい。「柳家三三 元犬」「林家彦いち 神々の唄」「柳家小ゑん 鉄寝床」など。
そんな中、最近ちょくちょく検索ワードに登場するのが「柳家小のぶ」師匠の名前である。今、静かな小のぶブームが来ているのだろうか。
単独ワードなので、こちらで検索して、当ブログさすがにトップには出ないが、1頁目の終わりに当ブログの「時そば」の記事が表示される。
これは、昨年末、池袋で小のぶ師が「ヒザ前」を務めた際の記事である。
最近、小のぶ師匠のトリ「厩火事」の記事も書いたのだが、残念ながらこちらにたどり着く人はまだいないようである。

柳家小のぶ、幻の噺家として独自の活動を続けていたが、数年前から寄席に復帰した超ベテラン、79歳の噺家さんである。
寄席に通っている人でも、まだ巡り逢っていないという人も多いはず。
かなり独特のスタイルで、じっくり掘り下げたくなる師匠。今日はこの噺家さんについて。

千葉テレビの「浅草お茶の間寄席」に、小のぶ師匠が登場していた。演目は「粗忽長屋」。
寄席に通っているくせに、TVの落語も私は大変好きなのである。
TVで落語を視ても、「再現性が低い」からダメだなんてことをいう。堀井憲一郎氏も、「ライブにしか落語は存在しない」と言うのだが、私は違うと思う。
「再現性が低い」のが事実だとしても、そのような環境だからこそ見えてくるものだってある。
現実の浅草演芸ホールには私はめったに行かないのだが、TVだからいいのである。

「浅草お茶の間寄席」は、浅草演芸ホールの高座をごくシンプルに撮影したものである。
TVのために撮っているには違いないのだが、NHKの演芸図鑑のようにTV用の演出があるわけではない。
うっかりすると、夜席の客入りの薄い高座がそのまま流れる。客席は後方からしか映さないから、スカスカなのかどうかは、演者のボヤキと客の笑いの量を聴いて想像するのだが、そんなのも面白い。
芸協の中堅どころの噺家さんが、お茶の間の前に、目の前の薄い席をなんとか盛り上げようとしている姿を、ワンクッション置いた画面の外から眺めるのは実に楽しい。

落語協会のほうには、そこまで客の入りが薄い高座は少ない。だが、妙に固い席というのもある。
春風亭一之輔師ですら、妙に客が固い録画がある。「長屋の花見」。
TVのこちら側で視ている私にはたまらなく楽しい高座なのだが、目の前の客にはもうひとつ届かなかったようだ。

小のぶ師の「粗忽長屋」もまた、ちょっと客が固い。
たぶん、なじみのない噺家に少々戸惑っているのだと思う。
笑い声も聞こえてくるのだが、笑っている人は、たぶん「一生懸命」笑っている。目の前で繰り広げられている芸がわからなくて、不安なので笑っている気配がする。
そのいっぽう、笑い声を立てない人の中に、小のぶ師の噺に食い入っている人が多数いることもまた想像ができる。

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孤高の噺家柳家小のぶ師匠。
TVで楽しむと、実に変わったスタイルの落語であることに改めて気づく。
1) 客との即物的な関係を構築しない
2) マクラで昔の風俗・時代背景を簡潔に説明する
3) やたらと上半身を動かす
4) 話しぶりがおおげさ

1は、今どきでは珍しいタイプだが、昔の噺家さんはみなこのスタイルだった。
漫談風のマクラで客とコミュニケーションを図ってから噺に入るという今主流のやり方は、かつては少なかったはず。

そして、マクラ。
この日の「粗忽長屋」では、江戸時代の身分制度と、行き倒れの扱いを語る。
旅人が倒れると、倒れた町内で面倒を見る必要があったのだと。
そうはいっても町内では面倒なので、こっそり隣町に持っていったりしたとか。
「粗忽長屋」に行き倒れが出てくるからその説明なのだが、よく考えれば変である。そもそも「粗忽長屋」を聴いて、行き倒れた人の正体・属性のみならずその背景が気になる人がいるのだろうか。
「スター・ウォーズ」において、物語の前に星間航行の技術を語られてもポカンだろう(たとえとして適当かどうかわかりませんが)。
だが、そうした一見どうでもいいつながりしかないマクラがとても楽しいのである。これは唯一無二の技術に満ちている。
別に、「ためになるね」と思って聴かなくてもいい。これを助走として小のぶワールドに連れていってもらえるのだ。

そして、身振りと話しぶり。どちらも大げさ。
多くの噺家さん、上下は振るけれども、所作はごく控えめである。控えめだからこそ引き立つという教えもあるだろう、きっと。
小のぶ師匠、とにかく忙しい。体をねじり、腕を大きく振り、いったん後ろに身を引いてからグイっとズームイン。
お歳を召した師匠は、静かなたたずまいでじっくり語るイメージがある。実際、体力がなくなったらそうしたスタイルに変わっていくものだろう。
しかし小のぶ師、年齢に抗うようにとにかく動く、動く。
だがもちろん、年齢とのギャップでウケを取るような芸ではない。
所作のひとつひとつ、実に綺麗である。流れるような美しさであるから、決してケレンには感じない。
こういうところに修業が出てくる。

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寄席に出てはいるものの、まだまだ幻っぽい柳家小のぶ師の落語をTVでじっくり聴いている。
幻の期間が長かった師匠だが、そもそも79歳で寄席に出ていること自体、十分すごいのだけど。
珍しさが価値になっているのは否めないが、でもしっかりと実力者である。

小のぶ師、声については若い頃から「悪声」だと言われているらしい。笑福亭鶴瓶師も、「悪い声だがクセになる」と語る。
談志も、確かこの弟弟子の悪声を批判していた。
「悪声」だという評価は私にはよくわからない。むしろなかなか官能的ないい声だと思うのだが。ダミ声ではあるが、よく響く。
この声で、リアリズムとは別種の、大げさなセリフをリズムよく語る。

オーバーアクションと、くどい語り。だが、こういう独自の体系に乗っかったひとつの完成系なのだ。
「粗忽長屋」の冒頭、股ぐらをくぐっていく場面、それからサゲの遺体を抱きかかえる場面の所作など、派手なことこの上ない。
小のぶ師の身振りと語りに目と耳を奪われているうち、だんだん噺の世界にトリップしてくる。
現実世界のリアリティはなくても、架空の世界におけるリアリティに満ちているのが小のぶ師の落語である。
前回、現場でトリを聴いたときの発見だが、客は小のぶ師の大げさな語りの中に、リアリティを見出していく。高座に参加させてもらって一緒に噺を組み立てる要素が強いので、これが劇的な経験となるのである。

ひとつの独自の体系を持った噺家さんの落語は、問答無用で楽しい。
「笑いたい」などという感情は、そういう噺に乗っかってしまえば、綺麗に吸収されてしまうのである。だから、客の笑い声の量だけ気にしても、噺の価値はわからない。
小のぶ師の客は、たぶん笑っていない人のほうがより楽しんでいる。
「落語では笑わない」と決めている面倒な人ばかりが座っているわけではないが、噺にのめり込んでいるといちいち笑っている暇がないのである。
そんな落語だが、きちんと滑稽噺の骨格がしっかりしているので、とても楽しい。笑うチャンスがなくてストレスの溜まるという落語も世にはあるわけだが、そのような芸ではない。
緊張感が漂うというものでもない。リラックスして聴けばいい。ただ、落語世界でも最上級の粗忽ワールドに潜り込むという、客の主体性は求められる。

うちの小学生の息子も二度小のぶ師を聴いているが、結構好きらしい。子供が惹かれる部分は親から見るとよくわからないのだが、なにかしら異様な迫力を感じるのだろう。
小のぶ師匠、9月の出番はないようだ。
寄席に出番のない師匠は、しばしば黒門亭に顔付けされるのだが、小のぶ師匠が顔付けされたのは見たことがない。じっくり噺を聴ける黒門亭で、ぜひお目にかかりたい芸だけどなあ。

作成者: でっち定吉

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