神田連雀亭ワンコイン寄席3(春風亭昇羊「夏祭りの想い出」)

また神田連雀亭のワンコイン寄席に行ってきた。4月下旬に初めて訪れ、早くも6回目である。
メンバー(二ツ目オンリー)によっては、この用事だけでわざわざ行く価値がある。
今回は本当にもうなんのついでもなくて、電車賃払って1時間だけ落語を聴いて帰ってきた。

寄席が大好きな私だが、池袋あたりに行くとなると、それ相応の気合は必要になる。
ワンコイン寄席に関しては、本当にフラッと行ける。
同じ500円の鈴本・早朝寄席でも、こんな気軽な気持ちでは行かない。連雀亭、なんだか妙に居心地いい。
わずか三席の落語、それも一席はだいたいハズレ。そんな席なのだが、これがいい。

鳳笑 / 牛ほめ
昇羊 / 夏祭りの想い出
市弥 / 粗忽の釘

この日は柳亭市弥、春風亭昇羊のふたりが目当てである。ともにイケメン落語ブームを牽引している。
三席揃って当たりだった。

三遊亭鳳笑「牛ほめ」

最初が、イケメンとはいえない三遊亭鳳笑さん。イケメンどころか、極めて怪しい風体。
これほど怪しい人を見かけたのは、最近では台所おさん師以来である。
この怪しい二ツ目さんが当たりだった。かっちりし(過ぎ)ている鳳楽師の弟子に、こんな珍獣がいるなんて。円楽党恐るべし。
落語協会が自民党、勢いのある芸協が都民ファーストだとしたら、我々円楽党は社民党みたいなものでいるのかいないのかわからない。この挨拶でつかみばっちり。
ちなみに、立川流は右翼団体だそうである。
高校野球の応援団をしていた頃の思い出をマクラで語る。実のじいちゃんばあちゃんが、「応援団の孫の応援に」やってきたというネタが、また十分に怪しくて面白い。
静岡出身だそうだが、静岡出身の噺家さんというのは鯉昇・昇太・百栄と、怪しい人が多い気がする。入船亭扇遊師などはちゃんとしている気がするものの、でもちょっと怪しい。
怪しい、怪しいと連発しているが、よくいえば「フラ」である。
フラのある噺家さんはいい。噺にアプローチする角度がちょいと違う。なので、終始高座に冗談めいた空気が漂う。すると、噺に向き合い過ぎてくたびれることがない。
一生懸命噺を語るものの、逃げ場がなくなり、客をいたたまれなくする人もいるから。
あんまりバカっぽくはないが、十分に怪しい与太郎を登場させて「牛ほめ」に。まあ、牛ほめの与太郎は字が読めるわけで、そんなに馬鹿でもないのだけど。
佐平おじさんも、つかみどころのない与太郎をいちいちまっすぐ受け止めていていい感じ。
一か所、オヤと思ったのが、「佐平の嬶アは引きずりだ」というセリフを、「股ズレだ」に直していた。
「引きずり」なんて古い悪い言葉を工夫なく入れるより、このほうがいい気がする。語呂がよければいいわけだから。
将来が楽しみな楽しい高座でありました。

春風亭昇羊「夏祭りの想い出」

次に春風亭昇羊さん。
人見知りで弟子にもあまり近寄らない師匠・昇太の子供っぽいエピソードを語る。
忙しい師匠を敬愛しつつ、あまり一緒にはならない弟子の、なんともいえない距離感が面白い。
昇太師もそうだがこの一門、昇々さんをはじめとして、内面がやや屈折した人ばかり揃っているようである。笑点の人気者の、その屈折振りに惹かれて入門するのだとしたら、弟子たちもいいセンスだと思う。
とはいえ、遅れて入ってきたお客に、マクラの途中で実に自然に「ありがとうございます」と声を掛ける、先代三平みたいな腕も持っている。
文治師に国技館に連れていってもらったが、気を遣い過ぎて逆に変なところで叱られるという、今どきの若者らしい爆笑マクラ。
そこから自作のネタへ。

落語というもの、よく知られた古典落語を掛けても、客を驚かせることができる人は売れる。
客の思い込みを適度に裏切ってみせると、客によく響く。
新作落語の場合は、最初から客の常識とズレたところに噺の世界を置くことができる。この点は古典より有利かもしれない。
だが、その世界のずらし具合は実に難しい。客に、「わからない」と拒絶されると、もうついてきてもらえない。面白いはず、と思う噺家の渾身のギャグが、客の頭の上を越えていくことになってしまう。
昇羊さん、このズレがちょっと大きい。極めて大きいわけではないのだが、「絶妙」というにはやや大きすぎるズレかもしれない。
もともと本人のセンスの中に、大きなズレがあるみたいだ。無自覚にズレているわけではなさそうで、少々確信的にズレたポイントを攻めているようである。ついていけない客もたくさんいそうだし、今日もたぶんいた。
だが、「なにをやっているかわからない」と切り捨ててしまうには、話術が極めて巧みなのである。ついていかないのはもったいない。
だから、少なくとも私はそうなのだが、「この人なにを考えているんだろう」と思って、こちらから昇羊さんのいる世界の扉を開けてみる。
そうすると、そこに昇羊さんの語りの体系が広がっている。そこに入り込んでみると、独特の世界観が結構よくわかる。
客に合わせる芸ではなく、客に合わせてもらう芸。不親切にも思えるが、合わせる気になった客にとっては、それ相応のご褒美が待っている。

この「夏祭りの想い出」は、男の心象風景を描いた噺。
好きな女の子、はなちゃん(だったかな)を祭りに誘いたいのだが、誘えない男。本人を前にしても、練習したセリフも言えない。
舌足らずで可愛いはなちゃんの、なにを言ってるのかわからないセリフが絶品。
結局、はなちゃんの落としたてぬぐいを持って夏祭り会場に向かうと、はなちゃんは可愛い友達を連れていて、この娘がやたらとアピールしてくる。
ストーリーらしいストーリーはほとんどない。師匠・昇太の新作「罪な夏」を思い起こさせる。
だが、一度昇羊ワールドに入りこめば、この世界のすべてが、楽しく語り掛けてくるのである。

昇羊さんについて、新作・古典の現在の比率などは知らないのだが、何年か経つとしばらく古典に力を入れるのではないか。
それから改めて新作に帰ってくる。
その頃には、古典の修業のおかげで、客と噺家との感性のズレ部分の埋め具合が大きく進歩している。
きっとこうなります。丁稚の予言。昇々さんもそうだったと思うのだ。

柳亭市弥「粗忽の釘」

トリは柳亭市弥さん。
イケメンでもかなりの怪しさを漂わせている昇羊さんと違い、正統派のイケメンである。

春風亭一之輔師の強い影響がうかがえる二ツ目さん。面白古典落語を目指しているらしい。
前回、池袋で聴いた「真田小僧」は、クスグリの面白さで攻めた噺だった。
とはいえクスグリ重視主義というわけではないようで、この日はストーリー展開からかなりの工夫を入れ込んだ「粗忽の釘」をたっぷり。

ただ、ちょっと考えすぎたんじゃないだろうか。
粗忽の大工について、「どうしてこの男はこんなにも粗忽なんだろう」というテーマを、深く考えすぎたのではないか。話がとんとーんと進まず、説明が十分すぎるシーンが多々あったように思う。
非難しているのではない。その工夫がもうひとつハマっていない気はしたものの、数々の工夫自体には、大きな敬意を払っているのである。
教わったとおりにやるのが古典落語だなんて勘違いしている人より、たとえ外したとしても、その工夫は必ず生きてくるだろう。

先人が作り上げた膨大なストーリー展開パターンを取捨選択して、自分の納得いく組み合わせにしてきたようである。随分と勉強しているんだな。
たとえば、釘を打ち込んでしまうのは、巣を張っていたクモを潰してやろうと思って手先が狂ったからなのだ。
「なんで大工なのに、薄い壁に瓦っ釘を打ち込んでしまうのだろう」という疑問は、誰しも持つものだろう。そういう細かい部分が気になりすぎると、理由も欲しくなるのだと思う。
ただその結果、「堀の内」などと同様の、ミラクル粗忽感は少々薄れる。
噺家さん、たとえ持ちネタでも、いったん納得いかなくなるともう掛けられなくなるらしい。だから、納得いくように噺を作り替えるのは、客のため以前に重要なことなのだ。

向かいの家に行ってしまって恥をかいた後、正しい家を訪れ、ちゃんと隣に越してきたもんだと名乗っている。さらにその前、いったん自分のうちに寄り、「落ち着くために」タバコを自ら用意している。
このようにすると、市弥さんの納得がいくのだろう。それはいいと思う。
ただ、この場面も、「正体不明の男がいきなり上がりこんできて、かみさんとのなれそめを語る」という、いかにも落語らしいシュールな情景は、いささか犠牲になっている。
落語というものは、新作落語で冒険し過ぎてシュールになってしまうことがあるが、いっぽう、古典落語の世界がじゅうぶんにシュールだという状況もまたある。

かみさんとのなれそめで、湯屋に行けないのでたらいを借りて行水するシーン、久々に聴いた。互いに背中合わせになり、石鹸を挟んで洗いっこするという。
古今亭圓菊で聴いたことがあった。

物事に理屈から迫っていくのも、一之輔師に似ている気がする。
理屈はいいでしょう。ただ、理屈を追求して噺を掘り下げていった結果、どこかでスコーンと突き抜けてしまうのが一之輔落語である。
市弥さんにも、突き抜けてしまうことを期待します。これだけ工夫しているんだから、亜流に終わったりはすまい。

とても楽しい連雀亭でした。

作成者: でっち定吉

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