野暮な噺家、野暮な客

ちょっと前に、落語の大会における組織票疑惑落語の大会における組織票疑惑について書いた。その後も、たまに検索で当ブログにお越しいただいている人がいるようである。
あまり大騒ぎし過ぎるのもどうかと思う(じゃ書くなよという話だが)が、当の噺家さんにとっては、今後の活躍に影響する痛い事件ではある。
まあ、問答無用の実力を身に着けるしかないでしょうね。

ツイッター上など、ひと様の意見を読んでいると、事象に対する切り分け方が気になって仕方ない。
「ルール上許される」「インチキである」とふたつに切り分ける発想がそもそもどうもなあ。
私が感じたのは、いい悪いではない。「野暮である」ということである。
動員されたのかどうかはわからないが、「贔屓の噺家に賞を獲らせてやろう」と考えた客たち、まずこれがどうしようもなく野暮。
そんな噺家を贔屓にしていたのなら、そのことも野暮の極み。
動員により賞をゲットしようとした噺家がもしいたのなら、これが最大の野暮。
なにがなんでも賞が欲しかったのだとしたら、その発想もやたら野暮。
それ以前に、学歴ロンダリングとその過剰なアピールも野暮だと思うのだが。これは、落語が上手ければまあ、いい。

野暮な噺家が大成するとは思えない。
もっとも、正当に見えない結果が出たのだとして、いつまでもそれに対して文句を言っている他の噺家さんも、もしいたら野暮だ。
不正の優勝に対して打ち勝とうとするなら、誰から見ても文句のない実力を獲得してください。修練あるのみ。
とはいえ噺家さんの世界、嫉妬に満ち溢れているようだ。よくいえば和を極めて大事にする世界。
まったくの想像だけどすでに、まわりの評価は「インチキ野郎とは付き合いたくない」になってるんじゃないでしょうかね。ということは、結果的に渦中の噺家さん、すでに将来の芽を摘まれてしまったのかもしれない。
二ツ目の寄席、神田連雀亭にも名前を見ないが、そういうところを避けていていいのかな。

いいか悪いかではなく、「やぼ」「いき」の判断基準が好ましいと思うのは、「絶対に野暮」「絶対に粋」を観念しなくていいということ。
「野暮だ」「粋だ」と言ってりゃそれでいい。もちろん、その判断を他人に押し付けたりしない。

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柳家喬太郎師匠は、圧倒的な力量をもって現代の落語界に君臨する才人である。
しかしこの師匠、半端でなく腰が低い。
喬太郎師、入門したての頃は、「さん喬の弟子なのに」変な新作に手を出したりするというので、楽屋でずいぶんいじめられたらしい。
三遊亭白鳥師がこう語っている。
しかし、喬太郎師の実力が抜きんでてくると、いじめた先輩たち、ペコペコするようになったとか。仕事もらう立場になるから。
いやな先輩たちだなあと思うし、落語協会のあの師匠がそういう人だろうかなどと考えたりもする。
だが、それはそうとしてこれが落語界だ。和を保てない人は大成しない。
修業の矛盾も見事に呑み込んだ末に、真打に抜擢され、今の喬太郎師の活躍がある。

不正騒動の渦中の噺家さんも、やむなく孤高を保とうとしているのかもしれないが、なかなかそれで成功することはない。
噺家さん、お笑いタレントと比較すると、圧倒的に生き残り率が高い。淘汰されていく人は少ない。
それでも、やはり大変な業界だなあと、こういうときにつくづく思う。

「個人の力量」というもの自体、そもそも落語界において怪しい存在である。
大抜擢で「個人の力量」を得たと認識し、その力でもって落語界を支配しようとしてしまったのが春風亭小朝師、そんな立場になったら無理もないと同情もする。
だが、現在は仲間もなく結構悲惨な状態だと思う。「圧倒的な力量」が本当にあったとしても、その力は、力の存在を受け入れてくれる噺家さんに対してしか働かないのだ。
つまり、孤立すると力も失せていく。
喬太郎師や、春風亭一之輔師は、小朝師よりずっと賢い人たちだと思う。つまり、粋だ。

寄席における客も、また粋でいたいものである。
当ブログでも、メモの取り方についてはたびたびなにかしら書いている。
もっとも野暮なのが、「ネタ帳ドレミファドン」。マクラから本編を当てて喜ぶという。
いや、予想が当たって喜ぶのは別にいいのだけど、「俺分かったぜ」アピールはうっとうしい。みんなそれくらいわかってるんだからさ。

他にも野暮なものはある。噺家さんがサゲを言った後の「ブラボーコール」なみのスピーディな拍手。
これについては、私も早く手を叩こうと思っているほうなので、ちょっと批判し辛いところがある。
言い訳しておくと、自己顕示欲発露のためではないです。噺が終わったときに、すぐに空気が変わらないと変な感じが漂うから。
だが、まだ演者がセリフを言い終わっていないのに叩く客を見たのである。これはもう、絶対にダメだろう。
ちなみに、とても素晴らしい高座だった、三遊亭竜楽師匠のトリ(両国寄席)でのこと。

***

ブログも粋に書きたい。
ひと様のブログだが、噺家さんのマクラの内容を事細かに記しているものは好きではない。
噺家さんの財産をすべて文字に起こしてしまうという暴力性もさることながら、詳細な内容を書けるということは、噺の最中ずっとペンを走らせているか、こっそり録音しているかのどちらかである。
どちらも野暮。後者は野暮というより違法行為だが。
なにか使命を帯びていると、勘違いしてしまっている人もいそうだ。
私はメモは一切取らない。メモ取らないから粋である、なんてことではもちろんないけども、粋であろうとするためには非常にいい方法だと思っている。
もっとも、奇跡的にマクラの内容細かく覚えて帰ってきたとして、覚えていれば中身をすべて披露していいというものでもないと思う。
メモとして残しておきたい気もあるけれど、基本的に他人に公開するものですからね。

ブログも、自分が見聞きした「事象」を事細かに書き記してしまうと、たちまち野暮になると思っている。
面白いのは、あくまでも書き手のフィルターを通した「書き手の体験・解釈」のありようではないのかな。そういう人のブログは面白い。
いっぽうで、ただの感想文もまたつまらない。難しいものである。

そもそも、落語を聴きにいったという時点で自慢っぽくなる。レアな席であればなおさら。
チケット取るのが大変な人気の噺家さんでもそうだし、いっぽうで「売れてないが実力者」という噺家さんの席でもそう。
「俺は観にいったぜ」という自慢気な気持ち、いや、よくわかりますとも。
わかるからこそ、それを丸ごと出してしまうと野暮なのである。

ブログ自体、そもそも野暮な感じがちょっとありますね。ツイッターが粋かどうかは知らないが、比較すれば、短文のツイッターのほうがやや粋かも。
「馬鹿発見器」となり、炎上しやすいのはツイッターのほうだが、その分粋に使いこなしている人もいるわけだ。
柳家小ゑん師のツイッターが好きでずっと読んでいるが、さらに最近、柳家一琴師匠のツイッターにハマった。噺家の日常を端的に描写するそのセンスは素晴らしい。

個人の内面を垂れ流しにできるブログは、字数制限もなく、もともとちょっと野暮なのかもしれない。
元来、野暮なメディアで発信をしているのだ。そのことは忘れないようにしよう。

でも、いちばん野暮なのは、ブログに広告貼ってるヤツかもしれないですね。

(2023/6/6追記)

ブログを始めて1年の2017年に書いた記事です。
「ひと様のブログだが、噺家さんのマクラの内容を事細かに記しているものは好きではない」と書いたあたりはもう赤面の極みです。
今のお前じゃないかという。

この頃は覚えられなかった高座の模様が、その後すんなり頭に入るようになりまして。
そうすると、いろいろ書きたくなるのです。
この頃はまだ覚える能力がなかったから、細かい内容を記したブログというものは、メモか録音かだと決めつけていたんですね。
この文句の相手は、Yahoo!ブログで始めた頃の私に、コメント欄で上目線の見解をぶつけてきた人です。
上目線については今でも腹が立つのですが、ご本人がブログに細かい内容を書いていたのは、現場通いの産物だったのでしょう。

そんな私も、2022年になってツイッターでこう書かれました。

§

落語でも「録音したんですか?」ってくらいに詳細なレポートを上げる人がいるようです。
本人は良かれと思ってやってるんでしょうが、基本的にはアウトだと思います。

§

まあこれも、普段書き記していない人にとっては能力が備わっていないので、録音を疑わざるを得ないようです。

いずれにしても、私も他のブロガー、ツイッタラーも、人の能力や背景を軽々しく決めつけるもんじゃないですね。
「書き手のフィルターを通す」べきという部分は今でも変わりません。

(2023/11/7追記)

拍手は最近は、ワンテンポ置いてするよう心がけています。

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。