ブログのネタは相変わらず枯渇気味。その点、落語を聴きにいくとネタができていい。
今週も東京かわら版チェックして、「堀之内寄席」「すがも巣ごもり寄席」、それから神田連雀亭など二ツ目さんの安い席を毎日のように検討していたのだけど、結局全部行くのを止めてしまった。
藤沢で無料の落語会があり、円楽党から朝橘・とむの二人が顔付けされていて、一瞬考えたけどもこれも止めた。無料でも交通費がちょっと。
別に落語に行かなくてもいいが、ブログのネタをこしらえなければならない。落語に行くのも、毎日ブログを書くのも義務でも何でもないですけど。
今日はひとつ、落語の演目をフィーチャーしてみましょう。
男の三道楽は「飲む打つ買う」。男なら、どれかひとつにハマるもんだという。まあ、いにしえの感覚だと思うけど。
三道楽というが、「打つ」つまり博打については、他の二つとだいぶ様相を異にする。「博打の世界に浸れて幸せ」なんて落語はない。
そもそも博打を扱った噺自体さして多くない。「狸賽」「へっつい幽霊」。あと、博打のほうが勝手に日常に侵食してくる噺が「今戸の狐」。
「文七元結」など、別に博打を取り上げた噺ではない。「品川心中」もそう。
富くじの噺のほうがまだ目立つが、庶民の合法ギャンブルである富くじと、全面的に違法の博打の世界とでは雰囲気が相当に異なる。
落語を聴く限り、博打なんて全然男の道楽じゃないと思う。「二番煎じ」とか「そば清」など、「食う」ほうが、落語の世界ではよほど道楽に映る。
そんな世界観はさておき、正月のTV(末広亭の中継)で圧巻の高座を務めていた春風亭昇太師にヒントを得て「看板のピン」を。
寄席ではわりとよく掛かるものの、しょっちゅう掛かっているというほどでもない気がする。短い噺だから、持ち時間の長い池袋ではそんなに聴かないが、新宿あたりではよくやっているかもしれない。
CDは驚くほど出ていない。寄席専門の噺なのだ。
「狸賽」もそうだが、「看板のピン」も、博打を楽しむ噺でもなんでもない。不正手段で金を儲けてやろうと企み、「オウム返し」で失敗する噺である。
博打で成功するとは、つまりインチキで金もうけをしようということ。博打自体は目的にはなり辛い。
ちょっとさもしいが、こんなのがまあ、非常に落語らしいといえる。
女にもてねえ奴ばっかりだから手慰みに集まってるんだなんてセリフがある。でもしか博打なのだ。
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「看板のピン」に出てくるサイコロ博打は「ちょぼいち」。
博打というもの、知っている人にとっては常識であって、解説し過ぎるのは野暮。だが、「看板のピン」に出てくる博打について、聴いている人、特に女性はもしかすると全然わかってないんじゃないかという気がしてきた。
「あー中もピンだ」というサゲ、まあ、詳しい説明を受けなくても、なんとなく失敗したんだなということはわかるだろう。ただ主人公が面白いほどツキのない野郎で、6分の5の確率で勝てる勝負に負けてしまったのだというところまで理解できているだろうか?
というわけで、少々野暮だが解説を。解説するほど専門家じゃありませんが、まあマクラ代わりに。
サイコロひとつを使うのが「ちょぼいち」。
ふたつ使うのが「丁半」。
みっつ使うのが「チンチロリン」。
チンチロリンは落語には出てこない。どんぶりにサイコロ三つ振って、外に転がり出たら「ションベン」とかいうやつ。
「今戸の狐」にはサイコロ三つの博打「狐」が出てくるが、これは「ちょぼいち」の変形で、チンチロリンのことではないみたい。なんでもチンチロは戦後流行ったらしいので、江戸・明治の噺には出てこないみたいだ。
同じくちょぼいちの変形で、サイコロ二つ使うと「うさぎ」というらしい。
「丁半」は大変メジャーな賭博。奉行所が手を出せない大名の下屋敷を借り、ヤクザが仕切っているのはこれ。
時代劇で、「半方ないか」「丁半揃いました」「入ります」「ピンゾロの丁」などとやってるあれである。そんなところに下っ引きが潜入捜査したりする。
ふたつの賽の目を足して、奇数なら半、偶数なら丁。確率は2分の1。五と二が出たら「グニの半」なんていう。
「へっつい幽霊」に丁半博打のシーンが出てくるが、落語には丁半はあまり登場しない。つまり、丁半はプロの博打だという認識があるのだろう。
「品川心中」では、死に損なった金蔵が来るまでひそひそ丁半をやっている。素人の丁半は珍しいかもしれない。
仲間内でひっそりやってる「ちょぼいち」のほうが落語の世界にはふさわしい。「狸賽」もこれ。サイコロ一個だから、「目玉」とか「天神様」とかの指示が成り立つわけだ。
「ピン」は数字の一のこと。「ピンからキリまで」のピンで、ポルトガル語から来ている。現代でもよく使う言葉。
「ちょぼいち」は、6分の1ずつ出るサイコロの目を予測して掛ける博打である。親の振った賽を子が当てれば、5倍になって返ってくる。
目の当たる確率は6分の1だから、確率的には親が有利である。
ごく単純な遊びだが、たとえばサイコロでなく人間が目を決めると、最も高度な博打とされる「手本引き」になる。
なかなか奥が深いのだ。それに、一点にしか掛けられないのではなく、実際には様々な張り方がある。
手本引きとは違い、偶然の要素が強い。その分、仲間内での素人博打に向いているのだろう。
「看板のピン」ではご隠居が胴(親)を取り、看板のピンを片付けたところで「俺の見たところ中の目はグ(五)だ」と言って見事当てているが、当てているのは勝敗とは関係ない。
この部分、落語としてはわかりにくくなっているのではなかろうか? わかる人はすんなりわかってしまうから疑問に思わないし。
一点で当てたご隠居はカッコいい(イカサマかもしれない)が、中の目が仮に三だったとしても、勝負は隠居の勝ちである。
主人公が真似をしてみせるが、彼の振った賽、2から6までの目であれば勝ちだったのである。この、壮絶極まる運のなさこそ、この噺の面白さの肝。
こういうこたぁ学校では教えてくれません。by志ん生。
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看板のピン、聴き込むと、改めてとても楽しい噺である。
まず、隠居がいい。この隠居は、東京の落語に出てくる典型的な隠居とは違う、上方落語によく登場する「おやっさん」の造型である。「胴乱の幸助」とか「饅頭こわい」の。
この隠居は、面白いことはひとつも言わない。だが、存在自体が面白い。
深い人生を背負っていることは、直接描写はされないがなんとなく伝わる。そうでないと、主人公が真似したくならない。
今の型だと、主人公がボロ儲けをしてやろうと隠居の真似をするという説明が入るが、もともとはそうではない。なんだか若いもんが真似したくなるあたりが「青菜」や「普段の袴」あたりに通じる。
この隠居の造型をしっかり語ると噺がふくらむ。
それから、噺に遊びの部分が多い。カチッとしていない部分が多くて、そこに噺家さんの付け入る隙がある。
オウム返しは、もちろんちゃんとやれないから落語になるのだけど、ちゃんとやれない描写が噺家さんの工夫になる。
マクラが長くなった。
ようやく「看板のピン」聴き比べに。CDがほとんどないし、TVの録画もあまりない。You Tubeになってしまう。
桂米朝のものはさすがに端正である。
さりげなく、また端的に、博打の勝ち負けがどこで決まるのかを客に語っている。といって噺の邪魔をする野暮な解説ではない。
カチッとしているが、固い芸でもない。バカな世界のおバカさんたちをほほえましく見守るムードもちゃんとある。
今さらながらだが、こういう落語の基本芸は、数多く聴いておいたほうがいい。そうすると寄席で聴く噺もいちいち腑に落ちて、変な疑問など持たず楽しめるようになるのだ。
隠居の「卵の殻ケツに引っ付けてる分際で」というセリフがいい。カリメロ?
「スーッと開けたら中もピン」。サゲは演者の地での説明である。おバカさんの世界から、ちょっと視点をずらしてみせる。
先代柳家小さんは、対照的に説明は少ない。過剰な説明をよしとしていないみたいだ。
落語を語る相手を、かつての遊びの常識を持っている成人男性としたうえで、そこにわかればいいという落語なのだろう。
小さんは弟子の談志を指して「あいつは女子供にまで聴かせようという了見がよくねえ」と言ったと。
この発言、現代視点から女性差別として捉えなくていいと思う。落語はもともとそういうもんだということだろう。
女性が落語を楽しむのはちっとも悪いことではない。だが、男の世界とされているものについて、噺家さんの積極的なサービスを待たずに理解・共感しようとする姿勢はあっていいと思う。博打や廓の噺はなおさらだ。
博打以外の部分の説明も少ない。主人公が隠居の真似をしてみるにあたっても、「隠居は返してくれたが、俺がやったら返さなくていい」などという、現代ではごく普通の説明がまったくない。
とはいえ、博打についてまったくわからない人が小さんの「看板のピン」をいきなり聴いて、つまらないかというと、決してそんなことはないはず。
なんの変哲もない「看板のピンはこっちにしまって」で爆笑が起きるのが、小さんマジック。
「中もピンだ」というサゲで、なんだか知らないが大失敗したことは、知識のない客にも腑に落ちるだろう。
とにかく、登場人物の世の中ついでに生きてる感じがとてもいい。
27歳の主人公が、隠居の真似して「48のときに博打はすっぱり止めた」「61の本卦返りだ」なんて言う。落語でおなじみのオウム返しだが、これもなんだかあまり違和感がない。爆笑ではなくくすくす笑いが起こる。
クスグリも引きの芸だが、噺の進行を邪魔しない。「おめえが親文か。親分、鼻くそぶら下がってるぜ」なんて。
そして、サゲに注力するため、オウム返しの言い間違いは特にない。
ちなみに、隠居が当てる目はグ(五)でなくて三。
今はみんなグだ。言葉の響き的にこれを採用しているのだろうが、いちいちグといっておいてゴに説明し直す必要があるのが少々面倒。別に三の目でもいいわけだ。
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「看板のピン」、TVの録画もそれほど持っていないが、林家木久蔵師が「演芸図鑑」で掛けていた。
この番組の12分程度の落語には向いているネタ。
木久蔵師の落語の実力、それほど世間に知られているとは思えないが、私は結構好き。妙に気になる噺家さんなのである。
この人は、器用なのか不器用なのか、バカキャラを前面に押し出して落語をする。
それがハマると爆発力を持つが、コケると収拾がつかないこともある。
で、「看板のピン」の隠居がどうかというと、貫禄の必要なこの人、まったく師のバカキャラに合ってないのは確かだ。
だが、合っていないからダメかというと、意外と悪くない。落語の登場人物なんていうのは最後は記号なのだ。らしければいい。
木久蔵師は、バカキャラのまま「貫禄のある隠居」っぽく語っている。そういう落語なんだと思うとわりと楽しい。
オウム返しにおける主人公の失敗は、大事な「中が勝負だ」を言い忘れていること。だが強引に「言ってなかったかもしれないけど」と先に進んでしまう。
まあ、マンガ落語ですな。世界観がしっかりしているなら、マンガ的な造形は悪いものじゃない。
それから、三遊亭兼好師の動画がある。
兼好師は、隠居も八五郎も両方似合う器用な人だ。
兼好師では、隠居でなく「親分」。玄人筋の人みたいだ。親分らしく胆力が目立つ。
小バクチで遊んでる連中も、丸っきり堅気というわけでもなさそう。
今どきの型で、説明はくどくはないが多い。親分に胴を取ってもらうのは、負け続けて取り残された連中ばかりなので、誰も胴を取れなくなっているから。
親は負けたときの損害がでかいので、ある程度の資金がないと務められないのだ。
そして八五郎、ぼろ儲けをしたい気持ちもあるが、もっぱら親分の真似をしたい気持ちのほうが強い。
年齢はちょっと若くて23である。
オウム返しは適当で、「若い頃は盆栽の上で寝たもんだ」などと無茶苦茶で、いちいち突っ込まれている。
そして「中が勝負だ」は言い損ねて、やはり突っ込まれている。
非常に面白いが、今ふうの型でなく、先代小さんのようなギャグ少な目で演じるのも聴いてみたい気がする。
先日紹介した「東京かわら版」の巻頭インタビューで、「タイミングよくジャブを出す」重要性を語っていた兼好師、ギャグの少ない引きの芸でさらに爆笑を呼べそうに思う。
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この稿を書くきっかけになった春風亭昇太師。
新作派の昇太師だが、「看板のピン」はかなり昔から手掛けているようだ。「落語のピン」なんて古い動画までアップされている。
その頃すでに完成していたようで、今と大きくは変わらない。主人公の年齢は、23だったり28だったりいろいろだけど。
演者の加齢とともに登場人物が落ち着いてくるというのが普通だと思うが、そういう当たり前のルールは昇太師には適用されない。
関係ないが、東京落語会(NHK日本の話芸の収録)の700回記念口上で昇太師も並んだ際、柳亭市馬師から「あの人は私より3つも年が上なんです」と言われていたのがやたら面白かった。
この人も、隠居の造型は木久蔵師と一緒でわりと適当である。だが、それがまったくマイナスになっていないところは凄い。
さすが昇太落語で、新作・古典を問わずこの人の落語の登場人物はみんな地に足がついていない。躁病なのだ。
そういう世界においては、隠居らしい記号として存在するだけでいい。躁病の度合いが比較的薄い人が、落ち着いた隠居だというメッセージになる。
実は聴き手の脳が錯覚を起こしているのだが。
「怒った隠居」「優しい隠居」、すべてが記号だが、だんだんそれらしく映り出す。
そして、オウム返しをやりたい主人公、バカなので早速、一部始終を見ていた仲間の前でやろうとする。
改めて場所を変えてやってみるが、そちらの博打仲間が親切にも「賽がこぼれている」と教えてくれる。耳を塞いで「あー」と叫ぶ主人公。
本人がちゃんとやっていても失敗する運命にあるところが面白い。
そして、だんだんキャラクターの描き分けが自然とできてくる。
こういう落語をする人、他には見当たらない。
上方では、米朝以外に林家菊丸(染弥)師のものがアップされている。
これは結構違う型である。昔は鳴らしたのかもしれないが、今となっては若い連中はおやっさんを舐めてかかっていて、一丁ハメてやろうと企んでいる。
そうすると、逆襲するおやっさんに客が快哉を覚えるわけだ。
そして、おやっさんの看板に懲りて博打をやめようというやつは皆無。
ほぼ同じストーリーなのに、世界観が著しく異なるが、こういうのも面白い。落語には無限の可能性があるということだ。
おまけ。「看板のピン」は聴いたことがないが、ぜひ一度聴いてみたいのが春風亭一之輔師。
「プロフェッショナル仕事の流儀」に映し出された師のネタ帳の中で、この噺はやっていなくはないが地味。
2013年には27席と結構やっていたようだが、じりじり減って2016年は一桁。
胆力を必要とする隠居、それからオウム返しで失敗する八っつぁんともども、一之輔師にぴったりだと思う。
だが、一般にはそれほどウケない噺を爆笑落語に作り替えるのが得意な一之輔師。オウム返しものだと「普段の袴」みたいな噺のほうが目立つ。
「看板のピン」のような、ウケどころのはっきりした噺はかえってやりづらいのかも知れない。