コロナ禍で落語のネタができないまま、朝を迎えてしまった。
日本語の話でも出そうか。
主夫も兼ねている私は、ほぼ毎日スーパーに行く。
レジでもって、最近新たなフレーズを耳にするようになった。「袋はご用意しますか」。
これに対して、マイバッグ持参の私が答える「いらないです」。
ある日突然、自分の言葉にオヤと思った。「いらないです」?
日本語の正しい使い方だと「いりません」のはず。
事務的に伝えるなら「いいです」。
やや丁寧にいうなら「結構です」。
激しく嫌な言い方だと「大丈夫です」。
フランク(あるいは乱暴)に伝えるなら「いらないよ」。
柳家さん喬師が、マクラで一時語っていた。街の客引きの「カラオケ大丈夫ですか」。
お前にカラオケマシンの心配をされる筋合いはないと。
このような、用法の不快な例を挙げれば、同じく不適切な言葉遣いは慎みたいなと思う。
だが、「いらないです」はいいの?
結論としては、いいのだ。だからこれからも私はこう言い続ける。
なんでこの、少々変な言葉遣いをするのかは、自分でもよく理解している。
結局「いりません」「結構です」というものの言い方に、非常に厳しい、拒絶の意思を感じてならないからである。
これは、保険のセールスの電話が掛かってきたときに使う言葉なのだ。わたし的には。
レジでたまたま邂逅する人に対しても、拒絶の言葉を使いたくない私。
日頃、あまり人と交わらない生活を送っているもので、自分でも意外な発見であった。
まあ、明確に拒絶したほうがいいこともある。オレオレ詐欺全盛の今はないが、かつて電話セールスでもって「いいです」と答えると「いいです = OK」と勝手に解釈して商品を送り付けてくるなんてこともままあった。
こういうときは「不要です」と言質を取られないようにしておいたほうがいい。
「日本語の誤用」自体は、もともと私はあまり気にしない。
気になるとしたら、古典落語で八っつぁんにうっかり「ちげーよ」と喋らせるぐらい。これは歴史の捏造になる。
人間心理によって自動で用法が変遷していくものにつき、正誤の問題を必要以上に持ち出すとしたら、それは人の気遣いを無視しているに等しい。
現時点での正誤よりも、「大丈夫」のごとき、気持ち悪い使い方のほうがずっと気になる。もっともこれだって、その言葉を選ぶ心理についてはわかっているつもりだ。
無難な言葉、人を不快にしない言葉を選ぼうと無意識に選択しているだけなのだ。まあ、結果としてもっとも不快にすることもあるが、これはもうセンスの問題。
うちの子はもう大きくなったが、小さい頃、保護者として「禁止」のメッセージを出すとき、しばしば「やめれ」と言っていた。
私は北海道や東北の出ではない。
「やめろ」というのが、子供相手であってもなんだか強すぎて嫌だったのだ。「やめれ」って実に平和じゃないでしょうか。
「言葉の乱れ」に対する自覚が強すぎると、こうした言葉は使えなくなる。
スーパーで思い出したが。
実際の会計の際、私は何と言っているか。
「○○ペイで」「楽天Edyで」などと答えて、支払っている。
面白いものだ。これが「○○ペイ!」「楽天Edy!」という体言止め(言い切り)だったら、なんともぶっきらぼうだ。
その場限りの付き合いであるレジ担当者にも、グサッと刺さるぐらいぶっきらぼう。そう思いません?
助詞の「で」を付けるだけで、後ろの「お願いします」または「支払います」の省略をうかがわせることができる。
ただ、本当にこう発言するとなかなかうっとうしいし、余計な情報も付け加えることになる。
「で」ひとつによって、相手への敬意と、言葉の簡略化を同時に達成しているのである。
言葉ってのはよくできてるなと。
取ってつけたように最後に書くと、落語の会話もまたよくできている。
昨日もらんまんラジオ寄席で先代小さんを聴いたが、実に無駄がない。しばしば乱暴なことを言う八っつぁんは、隠居を怒らせるような言葉も発するのだが、小さんにかかればどこまでも平和なやり取りである。
「隠居が怒ってもいい」という、記号的なサインのみが漂っていて、二人の会話はことごとく平和なのであった。
若手だと、意図的な悪態なしには進まないだろうなと思った。
つまり会話とは、言葉遣いとは、心理のやり取りなのだという当たり前の結論を出して今日の記事を締めます。