入船亭扇辰「紫檀楼古木」

寄席に行きたいが仕事もあるので、テレビの落語で我慢。
でもいいものもある。
落語研究会では、桃月庵白酒師の「厩火事」と、入船亭扇辰師の「紫檀楼古木」とがセットで流れていた。
2020年10月収録で無観客だが、どちらもいいデキ。演者のほうも、配信落語ですっかり慣れたというのもあるだろう。
今日は扇辰師を。

紫檀楼古木は、今では扇辰師しかやらないはず。圓生や先代正蔵の音源は聴いた。
かつて圓生の速記と、その自己解説を読んでいるので、わりとすんなり聴ける。もっとも、知識の前提のない人でもちゃんと楽しめるように作ってある。
私が嫌いな「説明過剰落語」の対極にある、説明を極力省いた噺。

2年前に、池袋で扇辰師から実際に聴いたことがある。その前に、喬太郎師の番組でも掛けていた。
池袋では、仲入りのひとつ前の出番。こんな出番の際にぴったりの噺。本来は。
最近扇辰師は、「五人廻し」など大ネタに混じってトリでも積極的に掛けているようだ。短い噺だから、マクラを厚めにしているのだろうか。
この落語研究会は24分なので、トリだと尺が足りない。
マクラは短め。無観客についていじり、次にカタカナばかり使う最先端の職業から、一気に過去の滅びた商売に話を持っていく。

キセルの簡潔な説明と、実演から始める扇辰師。
「どうです。今、扇子がキセルに見えたでしょう」と芸の力をアピールする。
寄席で聴いたときも喬太郎師の番組でも「こういうことは三遊亭白鳥にはできません」と同郷の先輩をネタにしていたのだが、この落語研究会ではやらない。
今回、「キセル」がはるかカンボジアから来た言葉だという説明を入れていたが、これは初めて聴く。
その代わり、電車に乗る際のキセルの説明「両端がカネ」はない。

紫檀楼古木は、隠れ超人ものとでもいうか。
落語の世界では、甚五郎ものや「抜け雀」などがそう。超人が、日常に紛れて暮らしている。
もっとも、それらほどドラマティックな設定ではない。
キセルの両端の金具をつなぐ「ラオ」のすげ替えをするラオ屋の爺さんが、実は高名な狂歌の先生だという。そんな程度。
極めて地味な超人だ。ラオ屋をしているのは、別に世を忍ぶ仮の姿ではなくて、本当に生計を立てるためだし。
この軽やかさが癖になる。

汚いジジイだとラオ屋を嫌がる御新造が、狂歌の偉い先生だと気づいて反省するというだけ。骨格は極めて軽い。
なのに楽しさ満載。
サゲも地口でなんてことはないのだが、扇辰師の得意な「甲府い」をも彷彿とさせるのである。
「豆腐い、胡麻入りがんもどき」を、「甲府い、お参り願ほどき」と洒落るのが甲府い。
紫檀楼古木は「ラオ屋、キセル」を「羽織ゃ、着てる」。

扇辰師はあえて説明しないが、御新造はどこかの旦那の御囲い物。劇中、旦那の存在がぼんやりと語られる。
その妾に、女中の清が付いている。
登場人物は3人だけ。古木先生に、御新造に、ファンキーなお清。
このお清、かなり癖が強いキャラである。扇辰師のとても好きな造形。
だが、インパクトの強さと裏腹に、最初聴いたときより進化して、軽い、肚のない造形にどんどん変遷してきている。
古典落語の登場人物の多くは、噺の中にいきなり現れ、消えていく。お清も、この噺のために出てきた狂言廻し。
お清は古木先生の、外見の汚さを徹底的に罵る。なので御新造もあおられて嫌がっている。

狂歌の先生なんて言われても、一般の人にはまるでピンと来ない。昔も今も。
だいたい、狂歌なんて今詠んでいる人などほとんどいない。
狂歌は、蜀山人など歴史上の人物が詠んだものを、教科書で知るぐらい。
客にもピンと来ないその文化を、文盲のお清がしっかりつないでくれるのだ。

汚い国から汚いを広めに来たジジイ、それがお清から見たラオ屋の爺さん。正体は紫檀楼古木先生。
落語の世界、親切を広めに来る人、強欲を広めに来る人だけではない。汚いのを広めに来るジジイもいるのだ。

そして、楽しい狂歌4作。
説明過剰落語でないので、歌の説明は一切入らない。

  1. (古木)牛若のご子孫なるか御新造の 我をむさしと思いたもうて
  2. (御新造)弁慶と見たはひが目か背に負いし のこぎりもあり才槌もあり
  3. (古木)弁慶にあらねど腕の万力は 煙管の首を抜くばかりなり
  4. (古木)ふり出しの日本橋から雨に濡れ 抜けるほど降る鞘町の角

1は、お清に煽られた御新造が、汚らしいジジイの古木先生を、「むさい、むさい」と罵っているので、古木先生がシャレでこしらえたのだ。
扇辰師の描く古木先生、それほど怒っているわけではないのだ。事実、汚らしいジジイには違いないし。
自分を武蔵坊弁慶になぞらえ、「武蔵」と呼ぶのは、主人牛若の子孫かと謎を掛けているのである。

それを受けて御新造、武器を背負っているから武蔵かと思ったのだがと返す。

さらに古木先生、万力は持っているが、人の首ではなくキセルの首を抜くだけなんだと。

最後の狂歌は、その場で読まれたものではなく、お清に御新造が解説しているもの。

言葉だけさらさらと語る扇辰師。
この噺、解説が多いと野暮になる。客が雰囲気を味わう、最低限のところで止めてしまうのだ。
でもいいのだ。なんとなくはわかるだろう。「むさし」なんてどう掛かっているのかわかりにくいが、御新造がちゃんと言葉に出していて、それを拾っている。
その流れすらピンと来なくたって、お清のレベルで楽しむことはできる。

こんな渋くて楽しい一席があるので落語はやめられないのです。

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。

2件のコメント

  1. 春風亭朝枝さんが、昨年秋から扇辰さん直伝の「紫檀楼古木」をかけています

    1. なかやまさん、いらっしゃいませ。
      情報ありがとうございます。朝枝さんが紫檀楼古木ですか。
      さすがのセンスです。ぜひ聴いてみたいものです。

コメントは受け付けていません。