笑点の人気者小遊三師。
当然、面白い落語をするものと思っている人が多いだろう。間違いではない。
私も、1枚にまとめたディスクでもって小遊三師を聴くのだが、まとめて聴くと実際、本当に楽しい。
しかし面白落語だと思って対峙すると、落とし穴にハマるかも。
相当に面白いのは確かだが、「笑い」への期待が高すぎると、意外とそれに応じたリターンはない気がする。
すごい実力者だと考えて聴きにいったのに、ぼんやりした感想を持って帰ってきた人も、いると思いますよ。
小遊三師の偉大さは、芸協の若手の高座から、間接的に知ることができる。
多くの二ツ目さんが、小遊三型の古典落語を掛けている。個性が強いので、すぐわかる。
若手は、小遊三師のわかりやすい個性に惹かれているわけだ。
だが、奥座敷まで見えているかどうか。
今回、小遊三師がかなりの本格派だということに気づいた。
わりと面白路線の「千早ふる」を取り上げた際、師が意外と本寸法だということを述べた。
本格派にしては面白過ぎる点、誤解され気味かもしれない。
少なくとも船徳に関しては、超本格派だ。即物的に得られる面白さに引きずられなければ、もっと楽しめる。
二階から、通行人を日がな見ている居候の若旦那。
面白いことに、通るのは男と女だけなんだと。
ごく軽いクスグリだが、すでにここに映像の立体感が生まれている。二階でぼんやりして、しかし色々考えごとにふける若旦那の姿、柳橋の川べりに面して建つ船宿の全体像すら目に浮かぶ。
意味のあるクスグリというのはいい。
この先の場面だが、船頭が女中に騙され、ふんどしを流す映像も、同様に浮かんでくる。
若旦那が船頭になりたい、ついては披露目をしたいという。
披露目はともかく、船頭たちに断らないといけないので、船宿の主人は熊さん八っつぁんたちを集める。
小言をくらう前に自白してしまう船頭たちの悪さは、新造の舳先を欠いたことと、喧嘩。そばの出前のくだりはなく、ごく軽い。
クスグリ豊富なこの噺を、押さないで演じる小遊三師。噺に内在する面白さを信頼しているからできること。
ストーリー進行を妨げるクスグリはひとつもない。どんどんクスグリが増えるこの噺、実に適切なところで打ち切る。
この手法を理解できないと、小遊三師の全貌に迫れない。
無事船頭になり、四万六千日の当日、浅草大桟橋まで客を運ぶ徳さん。
この先もすべて、展開がキビキビしている。
おかみさんは、徳さんの船に乗ったら大変だなどと、なじみ客に吹聴したりしない。一度は止めているけど。
残ったクスグリの入る箇所。
- 客を待たせて髭をあたる
- 船が舫ってあるから出るわけない
- いつものところで三度回る
- 町内の人に大丈夫かと心配される
- 石垣に近寄り過ぎてこうもりを取られる
- 揺れる船で一服する
- 汗が目に入って前が見えない
- 桟橋に着けず、客に歩いてもらう
これだけ。竿を流したりしないし、背中に徳さんがおぶってきたりもしない。
船徳みたいに応用編のギャグまでしばしば聴く噺で、基本のクスグリしかないと、かえって新鮮である。
そしてひとつひとつの場面が、しっかり楽しい。
登場人物たちも、別に落語の客へのサービスで、面白いことを言おうとしているわけではない。俯瞰して眺めると、それはたまらない状況。
船徳をクスグリ多めにすることのデメリットは、容易に想像できる。
「船客がひどい目に遭わされる噺」になってしまうのだ。
もちろん落語の世界、ひどい目に遭う人物の災難を楽しむ演目もたくさんあるから、クスグリの工夫がすべてダメなんてことは言わない。
だが小遊三師は、真逆の目的意識を持っている。
なにしろ船に乗るのを発案する客が、「どんな災難も楽しんでやろう」と決意しているのである。
実に江戸っ子らしい客。この造形については、心底驚いた。
もっとも、直截的にこう描写されてはいるわけではない。だが私にはちゃんと伝わってきた。
だから太ったほうの客の嘆きも、度を越えて強調したりしないのだ。
落語の客が、真の意味で楽しめる一席にしたい小遊三師。
というか、かつての船徳はきっとこうだったのだろう。
だからこそ、揺れてぐるぐるまわる船の中で、一服しようという気になるのだ。洒落だシャレ。
この部分、船客が楽しんでいるのが明確だった。
川の中を歩いて桟橋にたどり着くエンディングでも、この男、思わぬ経験をして、実に楽しそうだ。「(川の水が)冷てえ」と声を上げている。
いっぽうで、疲労困憊の徳さんは、暑さによりボロボロなのだった。
ごく普通には、みんな揃ってヨレヨレになる噺だろうに。
この客、ひどい船頭の船に乗ったネタで、しばらく楽しい酒が飲めるに違いない。
超本格な噺家小遊三師の奥座敷が開いた。その一端を客席から眺めさせていただいた。
小遊三師、系統を遡れば、現代に続く船徳を作り上げた初代三遊亭圓遊にたどり着くのである。
実質この一席を、聴きに出向いた価値がありました。
しばらくの間、いつまでも反芻して楽しめそうです。