笑二さん、大工調べの演出に関しては意外なぐらいスタンダード。
自覚的なこのやり方が、実に楽しい。
しかし、ここぞというところで裏切ってくる。もっとも、かなりのレベルの裏切りなのに、実に密やかに入れてくるため、そんなのもスタンダードに見えたりする。
演者が噺に先走り、「こんなオリジナルの工夫を入れてやったぜ」というドヤ感は皆無。若手における古典落語の作法として、特筆すべきところ。
笑二さんから楽しい新作落語もここ連雀亭で聴いたが、やはり談笑一門でも古典落語が似合う人なのだ。
「道具箱食っちまった」とか「(取り上げババアかに対し)じじいだよ」のくだりも、アクセントは付けずさらっと。だからこそ楽しい。
与太郎の語りはもともと面白いのだ。演者は信頼して喋ればいい。
与太郎は別に、「あたぼう」で大家を怒らせようとか、そういうややこしいことは考えていない。与太郎なりの普通をもとに行動しているだけなのだ。
与太郎が800足りない1両2分を、「6枚」としっかり勘定している。2分金が6枚である。
4分=1両です。念のため。
与太郎、この6枚を大家に放り投げる。大家がおたからになんてことするんだと苦言を呈しながら1枚ずつ拾い上げている。
2分金を6枚順に拾い上げて、なおも細かいのを探す大家に気持ちがシンクロするではないか。
実にささやかかつ、効果的な演出。古くからありそうなスタイルだが、あったとして私は気づいたことがない。
大家は与太さんに、裏へ回れとは言わない。言っても仕方ないと心得ているらしい。棟梁はちゃんと裏へ回るが。
昨日書いた通り、笑二さんの描く大家、そんなに嫌な人間ではない。店子の評判がよくないのは自覚しているのだが、自分で「因業大家」だと語る程度で、実像もそれほどひどいことはないらしい。
いっぽうで、棟梁の中には、大家が許せない気持ちが濃厚にあるらしい。与太郎の件とは別に。
無認可質権の件はさておいて、道具箱に関しては、確かに大家はそれほど因業なことをしたわけでもない。
棟梁は与太郎を、大手を振って手ぶらで現場に入れてやりたいのだ。でも大家からすると、そんなの知ったことではない。まあ、これは確かにそう。
経済的合理性から言って、この日の正解はこう。
- 棟梁が使いを出し、大至急800文を大家に届ける
- そこで道具箱を解放
- 与太郎は、明日現場に道具箱を持って出向く
なるほど、別にそれほど過大な要求というわけでもない。実際に大家は、棟梁が800文をそれっきりにしそうだと警戒すらしている、たぶん。
古くからある解釈では、大家は棟梁の言葉尻をとらえていって、確信的に怒らせる。でもこの大家はそうでもない。
なので啖呵のトリガーが必要。最初で最後のキツい悪態、「雪隠大工」を大家が発言して、棟梁の怒りのスイッチが作動する。
スラスラスラっと、しかし魂のこもった見事な啖呵であった。さすが稽古の虫の笑二さん。
沖縄出身の江戸っ子。
落語界、稽古を自覚的にしない噺家もいる。最近そのメリットも書いた。
だが、こういう言葉は日ごろから鍛錬していない限り絶対に操れない。
客は薄くても、当然に中手が入る。
すかさず笑二さん、「長屋の連中、手叩いてやがる。帰れ帰れ」。
落語の中手というもの、嫌がる噺家もいるぐらいで、お約束のように入れるべきものとは思わない。
ただ例外がある。「大工調べ」と「がまの油」に関しては、絶対に入れたほうがいいと思う。アホみたいなデキだったら別ですが。
たまたま桂米朝「歳々年々、藝同じからず」を読んでいたら、弟子・千朝が掛けるという「帯久」について触れた箇所があった。
帯久は極悪人か、あるいはそれほどでもないのか。
演者としては決めておいたほうが演じやすいだろうが、それは演者の都合に過ぎないのかもしれないと米朝。
なるほど。大工調べにおける笑二さんは、演者の都合で噺を語っていない。そしてその得難い新鮮さは、客にも伝わる。
棟梁の啖呵でもって正義が棟梁のほうに振れたのだが、バランス感覚を維持している笑二さん、ここからもう一段工夫がある。
与太郎がちょいちょい日和るのである。
出来心のハシタ泥棒が親分に、「そいつは了見がよくねえ」と意見するようなものだ。
与太郎、大家に文句を言っていたはずなのだが、いつの間にか「仕事なんてのは早めにわかるもんなんだから、明日からなんて言わず早めに伝えておけ。店賃の肩代りだって早めにしてくれれば道具箱が出せたのに」と言って棟梁に「それは俺のことだ!」と叱られる。
吉本新喜劇みたいなそのやりとりは、噺の全体を損なったりはしない。ささやかなお愉しみ。
つくづく見事な一席でした。5人とは思えない大きな拍手が飛んでいた。
笑二さん、圧倒的に上手い二ツ目だが、売れるためにはさらになにが必要だろう?
もうちょっとわかりやすい、悪く言うと卑俗な面白さが必要だろうか。でも、そんなものを入れる努力は、この日の圧巻の高座にはつながらない。
噺家生活も難しいものである。人気なんて無用だとも言えないし。
ただ、ささやかだが重要な工夫を、ちゃんと楽しむファンもいるのです。
まあ今後きっと、わかりやすい人気より先に、貫禄が付いてくるんじゃないか。