小多け / 道灌
雲助 / 無精床
小燕枝 / 蜘蛛駕籠
(仲入り)
小菊
小里ん / 禁酒番屋
寄席愛好家の私であるが、たまには落語会にも出向きましょう。
寄席は落語の基本だが、落語のすべてが寄席にあるわけではない。
東京かわら版で見つけた「柳噺研究会」。3月18日の会である。会場は稲荷町・下谷神社。「寄席発祥の碑」のある由緒正しい神社。
五街道雲助、柳亭小燕枝、柳家小里んという、素晴らしい落語世界を構築する師匠方。予約して行ってきました。
チケットをあらかじめ買っておいたり、予約をしたりという行為はあまり気が進まないのだが、安く落語を聴きたいという欲求と折り合いをつけるために今回は予約を入れてみた。予約料金で2,500円。今月三度目の落語で初めて支払いをする。
小燕枝師、小里ん師は黒門亭でもたまに聴いているが、雲助師はそちらには出ない。寄席での軽い雲助師匠も実にいいが、長講を聴くためにはこういう会に来なければならない。
寄席以外で雲助師を聴くのは、浅草見番での「雲助蔵出しぞろぞろ」以来ちょうど一年ぶりだ。
お客が極上で、とてもいい会でした。真のツウが揃っている。打てば響くお客さん。
満員ではなく、50人程度の入りか。
この日の私が感じた、会のキーワードは「丁寧」。
丁寧な無精床、丁寧な蜘蛛駕籠に、丁寧な禁酒番屋。そして前座の小多けさんまで丁寧な道灌だった。
丁寧な噺を聴けて感動です。
この会の3日前には、無料のイオン寄席に行った。そちらでは、笑点好きの年寄りたちに合わせた二ツ目さんの落語を聴き、大変楽しんだ。
そして、この会のような通の集う席に来て、続けて至極の楽しみを味わった。
対極の席に順に訪れたことで、落語の楽しみにつき新たに一皮剥けた気がしますよ。必ずしも、ツウの揃う会だけがいいということでもないのだ。
神社の二階の立派な座敷。東郷平八郎元帥の掛け軸も掛かっている。前方が座敷で後ろが椅子という、広小路亭や日本橋亭のパターン。
行ってみたら、前座以外演目はネタ出しだった。
柳家小里ん師と、この会の世話役、石井徹也氏との対談本「五代目小さん芸語録」は私のバイブル。
今日の噺のうち、無精床を除いてはこの本に項が立てられ、詳細に書かれている。無精床についても多少は載っている。
柳噺研究会発足のいきさつも掛かれている。パフォーマンス落語が増え過ぎたので、ネタが面白い落語をやりたいというのがきっかけらしい。
前座の小多けさんも、お見かけするのは「雲助蔵出しぞろぞろ」以来か。小里ん師の弟子。
流れるような語りの人ではなく朴訥だが、道灌でもって、客席から終始くすくす笑いが起きていたのは見事だ。
ギャグを変に追求したりせず、いい雰囲気を作り出すことに注力しているので、やがて非常に楽しくなる。
前座さんなのに、落語の無限の可能性を想像させてくれる。どこだったか一箇所の工夫で爆笑が起こっていた。忘れたけど。
いつまでも聴いていたくなる道灌だった。
最近私は、改めて前座噺に凝っている(?)のだが、「子ほめ」「たらちね」などと並んで、「道灌」はちゃんとやるのを聴くと心底楽しい噺だと思う。真田小僧だと飽きてしまうんですがね。
五街道雲助「無精床」
早くも五街道雲助師が登場。寄席ばかり行っていると唐突に映る。
この会は緩いので楽しいと。前回がいつだったかわからない。主催者の大有企画の人もいい加減なんだそうだ。それもまたいいのだと。
春先は噺をよく間違える。先日、「古金亭」で馬生、左橋といった人たちと競演した雲助師、全員そろって噺を間違えたそうで。でも、まだボケてるわけじゃあないと雲助師。
こんなゆるゆるのマクラも、寄席では聴けないもの。
無精床はネタおろしだそうである。私はこの会に初めて来たのでよく知らないのだが、雲助師は毎回ここでネタおろしをするらしい。
緩い会でのネタおろしだから、内容はおして知るべしと雲助師。いやいや、素晴らしい一席でしたよ。もう古希なのにネタおろしとは、立派な師匠ではないですか。
無精な床屋の大将を、多くの噺家のように違う世界の人として扱うのではなく、生き生きとした自分の分身として扱う雲助師。確かに、弟子によれば雲助師は、権太楼、一朝といった同世代の師匠に比べて、ちっとも仕事に懸命ではないらしい。
雲助師の無精床、従来からあるマクラを組み合わせて作った独自のスタイル。浮世床などと共通の床屋のマクラは普通だが、そのあとで、今度は無精のマクラが入る。無精会とか、無精親子。
また、本当に無精な感じが、それは合うのだ。
海老床の海老の絵が患っているマクラで、隠居が二人の若者に向かって「お神酒徳利だね」と何の気なしに入れているあたりが丁寧だと思う。
無精床(不精床)というのは、CDはほとんど出ていないが寄席ではよく掛かる。
大変難しい噺だと思う。実際、うまくいっている例をあまり聴かない気がする。
何の罪もない客が、ひどい床屋に迷い込んで、悪夢のような目に遭う噺である。どんな噺家さんがやっても、どこかカラッとしていない気がしてならない。
うっかり切り落とす客の耳を赤犬が狙っているなんて、リアルに考えたらおぞましいエピソード。
だが、無精な親方に自らをなぞらえる雲助師、実に融通無碍。さわやかだ。
ひどい目に遭う客を見ても、なんだかまあいいやという気がするのである。
ちなみに雲助師は、噺を勝手に覚えてやってしまうぞろっぺえな師匠らしい。もちろん、噺家さんの掟としてはいけないのだが、雲助師の場合はなんとなく許されてしまうようだ。
無精床も自分で研究したのではないかな。超ベテランになって、人に教わらず勝手に掛けたとして、文句を言う人もいるまい。
柳亭小燕枝「蜘蛛駕籠」
柳亭小燕枝師は、最近黒門亭でよく聴いている、大好きな師匠。先月、トリでネタ出し「うどん屋」があったのだが行けず残念だった。
雲助師よりさらに先輩で、御年73歳。
抑制された語り口の中にしっかり残る、とぼけた味わいが素敵な師匠。
リーフレットには「蜘蛛駕篭」と書いてある。「駕籠」と「駕篭」の違いのこだわりはわからない。
蜘蛛駕籠は省略せずに掛けると長く、トリネタだと思う。寄席で聴いたことはあまりない。実際それほどかかる噺ではないが、私はかなり好き。
蜘蛛駕籠も、「柳噺」、典型的な柳家の噺といっていいのだろう。TVの録画は、権太楼、入船亭扇遊といった師匠のを持っている。
「五代目小さん芸語録」で小里ん師は、小燕枝師から「蜘蛛駕籠」は聴いたことがないと語っている。
小燕枝師も、ひょっとして覚えて間もないのだろうか? 実際、検索しても出てこない。それにしては隅々まで隙のない噺だった。
長い噺なので、日常のマクラはそこそこに、旅の雲助のマクラに入る。
小燕枝師ならではのムードは、ふたりの駕籠かきが客を捕まえられないでいる割に、どこか達観していること。もちろん、困ってはいるのだが、「こんな日もある」という感じが強く漂う点、落語の国の住民っぽい。
蜘蛛駕籠は、5つのエピソードを重ねた噺。時間によってはどこか抜いたりもするが、この日はコンプリートVer.
1.茶屋の主人
2.お武家
3.アラクマさんの酔っ払い
4.踊るお調子もの
5.シャレで乗ってくる二人連れ
特に「あーらくーまさーん」が噺の肝になる。だからといってお調子者も抜きたくはない。
茶屋の主人が、駕籠の中から声を掛けていたり、外に出て啖呵を切っていたりと、小燕枝師の登場人物はその画が非常によく見える。主人の憮然とした感じもまずいい。
続けて、姫様の駕籠が通らなかったか聴くお武家の造型も、また非常に小燕枝師らしい。
一般庶民と通じる部分がなく、隔絶された侍である。冷静に考えると、駕籠かきたちが大慌てで準備をしようとしていることぐらいわからないのかと思うが、そういう侍なのだ。
形だけ立派な侍が、飄々としつつ威厳を併せ持った小燕枝師にやたらと似合う。
そして「あーらくーまさーん」。先日聴けなかった「うどん屋」の酔っ払いを重ね合わせて楽しむことにする。
ご機嫌な酔っ払いだ。この酔っ払いが土下座して謝り、勘弁してくれというのでやむなく勘弁してやると、また逆襲するという、あまり聴かないシーンが入っていた。
やはり隅々まで非常に丁寧。
アラクマさんから酔っ払いの話が戻る流れが、非常にスムーズ。ベテラン師匠の噺には、そこでウケてやれというような気負いが皆無の分、かえってやたらとおかしいのである。
その次、お調子者の踊る男は、なんとなく小燕枝師のニンには合わなそうに思ったが、実際にはピタッとハマる。とことん遊んでみせるその姿と、綺麗な声が。
酔っ払いに駕籠の周りをぐるぐる回らされる、漫画っぽいシーンから、やはり綺麗な画が浮かぶ。扇子を半開きにしてリズミカルに踊り続ける楽しい男。「乗りたいけーどゼニがない」までテンポよくとんとーんと。
そして最後のエピソードが、シャレで二人で乗る男たち。
噺の最後は、情景が一瞬にして変わり、八つ足の駕籠を通るのを親子が眺めるシーンに移る。途端に脳裏に浮かぶ画がパッと切り替わった。
じっくり聴いているうちにじわじわ来て、最後はもうたまらなくなる一席でありました。
小菊姐さんは、寄席の入り方とは全然違う。「○○にご案内~」もない。
なにを出そうか、まるで考えていないらしい。すべてアドリブとのこと。
この会のもののわかった客を褒め、浅草演芸ホールとは大違いだと。寄席でもどこかで毒舌を入れる人だから、落語会で寄席の客をdisっても不思議ではない。
といってもちろん、嫌味な芸ではありません。
寄席でもヒザだけど、落語会のヒザはいいですね。
柳家小里ん「禁酒番屋」
柳家小里ん師の禁酒番屋もまた丁寧。
冒頭からしばらくは笑いが入らない。笑いに走らず、とことん世界観を追求する。
ちなみに、噺家になってから酒を覚え、さまざまな失敗をしたというマクラは爆笑の連続だった。先に出た先輩、小燕枝師の名前も出ていた。
爆笑マクラが終わってからの、酒屋における近藤さまのくだり、世界観の追求目的をしっかり理解している私にとってすら、いささか平板なんではないかと思うくらい、笑いはない。
笑いがなくても緊迫感が続くためにずっと楽しいという噺も多数ある。とはいえ禁酒番屋、酒の不始末でのチャンチャンバラバラのくだりはともかく、酒屋のくだりに緊迫感はさしてない。
だが小里ん師が、強い足腰でもってとことん世界の追求に励んだ結果、どうなるか。おかげですっかり確立した世界観のもとでは、番屋のくだりに入ってから、登場人物がちょっと目線を動かしただけで、たまらないおかしさが噴き出すのである。
一般的には、カステラのくだりでは「水カステラ」という。だが小里ん師の禁酒番屋では「水ガステラ」だった。濁点が付いてる。
「五代目小さん芸語録」の禁酒番屋のくだりは、今までも随分読み返している。だが、そこでも「水カステラ」と書かれているから、最近濁点を入れてみたものか?
言われてみると確かに、「水菓子」なら「みずかし」でなく「みずがし」だ。「水ガステラ」のほうが、昔の雰囲気が出ていていいかもしれない。ちょっと新鮮な驚きでした。
「五代目小さん芸語録」の中で、小里ん師匠が「こんなやり方もある」と語っていたのが、水カステラの上に、本物のカステラを薄く敷くという演出。七代目可楽(玉井の可楽)がやっていたと、師匠小さんから聞いたそうである。小さんはそれにつき、「ちょっとくどすぎる」と語っていたと小里ん師。
だが、この日の小里ん師はなんとこの型でやっていた。すばらしいチャレンジ精神ですね。一度やってみようということなんだろう。
その成果は素晴らしかったと思う。番屋の侍がカステラをつつき、「カステラはかように固くないぞ」というのがまたウケる。
もうひとつ工夫があり、しょんべんを持っていく三人目に対して番屋の侍、また来たかと呆れ、一旦「許してやる」という。
これも昔からある型だそうだ。この柳噺研究会で小燕枝師がやったことも本に書かれているし、小さんもこの型でたまにやっていたらしい。
許されてしまうと復讐できないので、焦る手代がなんとかかんとか押し付けるのが楽しい。
「五代目小さん芸語録」はどこを引いても素晴らしいが、特に「禁酒番屋」の項は内容が濃い。
そこに書かれた数々の先人の創意工夫を、実演してみせる小里ん師。しょんべんに口をつけることはない。
現場で楽しく味わい、バイブルを再読してまた楽しい。たまりませんですな。
すっかり幸せな気持ちになりました。落語から生まれる世界観がすばらしい。
またこの会来たいですね。