柳家喬太郎、寄席を語る

昨日は鈴本の、昼夜の定席部分の配信についてのみ触れた。
さっそくお代わりです。

(※ 追記)
「粗忽長屋」について書いているのに、以下すべて「長屋の花見」になっていました。
訂正します。まさに粗忽の極致。

§

感激して昨日の主役に持ち上げたのが、柳家喬太郎師の「粗忽長屋」。
翌日も聴き、また感激しなおしている。再度そちらから。
新作をずっと作り続けてきただけあって、喬太郎師の古典落語は隅々まで行き届いている。
この演目は、ストーリーが日常的な感覚から隔たったところに存在している。死骸を引き取りに、死んだ当人が赴くという。
本来はツッコミ役が必要なのだが、そういう登場人物はいない。町役人だけではこの任を務めかねる。
この後菊之丞師の配信で流した「同棲したい」を念頭に置くと、「粗忽長屋」にツッコミがいないことの不自由さがよくわかる。

そういう演目だから、おかしな人たちを遠巻きに眺めるよりも、身近なものにしてしまおうというのが喬太郎師の美学か。
そう考えたときに、「生まれたときは別々だが死ぬときは別々」というクスグリを入れない、喬太郎師の腹積もりがちょっとわかる気がする。
クスグリは驚くほど少ない。クスグリを入れるごとに、客が現実と接点がないことに気づいてしまうからではないか。
さすがに、長屋に帰ってきた八っつぁんに、自分が呼ばれているとわからない熊のくだりは抜けない。熊の認知の狂いを表す大事な部分だ。
だが、他のクスグリは「俺、あそこ行ったんだ」「戸越銀座?」「違うよ、どさくさ」ぐらい。

粗忽長屋について喬太郎師が持つテーマは、「認知の狂いをどこまで笑えるか」ではないだろうか。突き抜けるちょっと手前でやめる必要がある。
かなり狂っていて、聴き手の脳を一杯に埋めてしまうのに、ぎりぎり愛すべき人であり続ける人たち。
そのさまは、クスグリがなくても実に楽しい。
そしてこの感動は、先代小さんの「粗忽長屋」から得られるものと、実に近い。角度はまるで違うのに。

古今亭菊之丞師の「ふぐ鍋」は短いバージョン。
ふぐ鍋という噺、実に面白いのに、しばらく自粛されがちな演目だったのではないかと思う。乞食に毒見をさせる、ヤバい噺である。
だが最近流行っているようだ。冬の噺だと思っていたが、冬でなくてもいいみたい。
最近は、人権についてはごく表面的に捉えていい悪いを決めつけないようになり、放送に近い配信で出せるのかなと思う。
意外と人類も、徐々に進歩しているなあと思うのです。

昨日、おなじみの演目で中身には触れなかったのだが、昼のトリ春風亭一之輔師の「あくび指南」。
今日もマクラについてだけ、ちょっと。
配信の効能について、ラジオのひとりトークみたいに語る一之輔師。
配信で「知った、見た、聴いた」という人がまた実際に寄席に来てくれたらいいと。
さらっと語っているのだけど、「来た、見た、勝った」のカエサルをさりげなく引いているところが、実にもってインテリだよなと思う。

そのあとの時間で、今度は古今亭菊之丞師の配信が、引き続き鈴本からあった。
配信の翌日に拝見した。ゲストは配信から居残りの柳家喬太郎師匠。「居残り」は業界用語みたいなもんだ。
菊之丞師は「法事の茶」で、喬太郎師は「同棲したい」。どちらも面白落語だが、それよりもアフタートークにいたく感動した。

このたび、寄席が休止になったからこうやって配信が行われているわけだが。その前の、4月の寄席継続について。
寄席は何も、世間に逆らって継続を決めたわけじゃないと思うと喬太郎師。
そもそも、「そんなに稼ぎたいのか」という某先生の非難もあったが、寄席を開けたからといって儲かるものでもない。開けても100%にできないし。
われわれ寄席で育っているから、寄席に出たいのだ。土日に外の仕事を受けたあとで、その土日の寄席が大入りで、ワリが高かったことを後で知った噺家が、なら「外の仕事受けるんじゃなかった」と言っていたという。
もちろん、外の仕事に出ないと生計は維持できないことを、ファンのわれわれは知っている。それでも寄席に出たいのが噺家なのだ。自分たちでも不思議な感覚だと両師。
そして、その寄席を維持したいのがお席亭。
寄席を維持したい、外からは閉めろと、そのせめぎ合いの中での判断なのだ。

対談相手の菊之丞師や、それから一之輔師の名も出して、噺家はそういうものだと喬太郎師。忙しいのに、出番をやりくりして寄席に出る。
アイデンティティなんだと。
地方に行く前に、早い出番に上がる噺家がいたりする。
なぜ、そこにいない一之輔師の名前を出したか。これ、志らくに闘いを挑んだ一之輔師を、全面的にバックアップしていると、私は理解した。
志らくは「忖度しない」という勝手なテーマに基づいて、さしたる知恵もないまま、寄席で育った同業者から白眼視される領域まで行ってしまった。自業自得だ。

寄席について熱く語る喬太郎師、笑いを交えながらだが、ちょっと涙声に聴こえた。
今、寄席は「生きるために休んでいるのだ」と喬太郎師。
ちょっとしんみりした後で、そのまま終わらないよう笑いを意図的に入れてくる喬太郎師にもう、たまらない思いです。

最後に、懐かしの色物の先生を振り返り、「俺、今(憧れの)鈴本にいるよね」と喬太郎師。
志らくよ、自分の浅はかさを思い知るがいい。

作成者: でっち定吉

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