丁稚版・落語のサゲ分類

サゲ、その適当なもの

身の丈に余る壮大なテーマを始めます。

しばらく前になるが、当ブログで「前座噺」についていろいろ考えてみた。
前座噺を考えたことで、落語本編と「サゲ」の関係について認識を新たにしたところである。
前座噺のサゲはそのほとんどが適当なものだ。

  • 角が暗えから提灯借りに来た(道灌)
  • どう見てもタダでございます(子ほめ)
  • 穴が隠れて屁の用心になります(牛ほめ)
  • 黙って飛んできた(つる)
  • いいえ、買わず(金明竹)
  • お替り持ってまいりました(味噌豆)
  • 札が札持ってきちゃいけねえ(狸札)
  • 大人なんてのは罪がねえや(桃太郎)

改めて、その適当振りがうかがえる。だが、そんな適当なサゲも、「噺を終わらせる」という、サゲ本来の機能はしっかり果たしている。

冒頭からふざけた、しかしよく練られたおはなしが続いたあと、最後に本編の内容とはさして関係なく、噺を終わらせるサインとしてサゲが働くのだ。
「転失気」など、何種類もサゲがあり、人によっては自分で作る。しかしどんなサゲであっても結局は上記の法則から逸脱しない。
別に何だっていい、本編に支配されていないサゲだからこそ何種類も作れるのである。
「たらちね」も、切るところが無数にある。持ち時間に応じてどこで終わっても、客の印象としては大差ない。
もっとも大事なサゲの機能は噺を終結させること。これは古典落語だけでなく、新たに作った新作落語においてもまったく同様。

「落語とはなんぞや」みたいなことを根本から考えたとき、しばしば「落とし噺」「オチのある噺」だなんてことをいう。
噺家さん自身もマクラにおいて、「ハトがなんか落としたよ」「ふーん」みたいな冗談が長くなったのが落語だなんて説明をする。
だが、落語における、スタンダード中のスタンダードといえる前座噺のサゲを見てみれば、「冗談が長くなったのが落語」だという説明は、フィクションに過ぎないものだということがよくわかる。
「冗談が長くなった落語もある」なら正解だ。「からぬけ」「たけのこ」など。

サゲの内容は、特に前座噺の場合、いずれも本編の内容とはさして関係ないものばかりである。
家を褒める「穴が隠れて火の用心になります」を再利用した「牛ほめ」のサゲはちょっと見事で目立つが、別に牛を褒めるところまで行かなくても噺自体は成立する。
サゲはただサゲとして、落語本編から独立している。間違っても、サゲを言うために落語本編があるわけではない。
少なくとも、多くの噺においてはこれが真実だ。

多くの噺においては、サゲなどなんだっていいものだ。サゲ自体、デキの良しあしはあるにしても。
だが、多くの人の落語に関するイメージは、こうではないらしい。サゲあっての落語であり、落語にはちゃんとしたサゲがあるはずだと思っているのではないか。
「起承転結」の結がサゲだという理解だろう。だが、ミステリーにおいて犯人が明らかになるような、はっきりした結末は落語の場合むしろ珍しい。
落語にはそもそも、「起承転」すらあるか怪しいのだ。会話の途中から始まり、終始同じペースで進んで起伏のない噺など珍しくない。だが面白いのだから、これは欠点でも何でもない。
起伏があったとして、「一目上がり」なんて噺は、「起転転転転」じゃないだろうか。「結」はあるような、ないような。
「大工調べ」「宮戸川」「替り目」等、一般的に途中で切られてしまう噺などもざらである。結末が早めに来てしまうともいえるし、結末の後に結末がもう一回あるともいえる。
替り目の「おいおいまだ行かないのかい」をサゲだと考えるのは構わない。ではサゲの先はなんだろう。

多くの人の印象であるらしい、「サゲあってこその落語」という印象は、どういう演目によりもたらされたのか。
恐らく「目黒のさんま」「死神」「時そば」「芝浜」「厩火事」などだろう。前座噺でない、有名な噺ばかり。
こういった噺においては、確かにサゲが噺を支配していて、サゲに向かって落語の物語は展開していく。サゲ自体が噺のテーマでもある。
展開としてはドラマチックだし、そのサゲが有名なのもよくわかる。
だが実際は、こういった噺のほうが少数派なのだ。適当なサゲのほうが、落語の世界では支配的で普遍的。
新作落語のサゲの付け方が前座噺っぽいのは、まさにこれが理由だ。多くの新作落語は、完全に落語の秩序の中に取り込まれている。
新作を含めた多くの噺において、サゲは本編とあまり関連していない。

落語において、サゲは最重要とはいえない。サゲのことを考えすぎると、むしろ落語がわからなくなる。
初めて聴く新作落語で、楽しく聴いてサゲだけ忘れて帰る。これは普通のことである。
忘れる理由もはっきりしている。落語本編とつながっていない、取ってつけたサゲだからである。
忘れて当然のサゲを忘れてしまっても当たり前。思い出せなくていつまでも気にしているのは無意味だし、忘れないようメモに取るほどのものでもない。
そもそも、思い出したところでそこには落語の肝はない。
NHKの演芸図鑑などで、落語ファンではない公開収録の客が、どうでもいいサゲに対して「あー」などと納得した声を発している。不快感はないにしても、違和感覚えませんか?
どうでもいい内容に納得するかしないか、本当にどうでもいい。
サゲと本編につき、不可分一体のものと考えるのは、根本的な間違いだと思う。サゲの内容次第で落語本編を理解するなんて、まるっきり間違い。

逆に言うと、どうでもいい内容なのに、起承転結の怪しい話を強引に締める役目を担っているのが落語のサゲ。
本当にどうでもよくはない。だが、分類まですることの意味は果たしてあるだろうか。

桂枝雀にモノ申す

サゲが本編と関連していない落語のほうが普通だということを、まず整理した。
そうだとして、本編とのつながりの程度は別に、サゲ自体見事な噺というものは多数ある。サゲの見事さゆえに、有名であったりもする。
だが、そのようなよくできたサゲを取り換えても、落語自体、実はだいたい成立する。
上方落語の見事なサゲを見てみる。別に上方に限定する必要はないのだが、このあと桂枝雀のサゲ分類を取り上げる関係で。

  • 今度はあつーい茶が怖い(饅頭こわい)
  • 汽車で来たらよかった(胴乱の幸助)
  • 「めでたい」とまたしくじった(けんげしゃ茶屋)
  • 旦那も雪駄履いて寝ておりました(高津の富)
  • 心配すな。わしも五千円で雇われた(動物園)
  • 電信柱見たらしょんべんしとうなりまんねん(犬の目)
  • 水瓶の漏るのん見つけてきた(はてなの茶碗)
  • これと一緒に、そこの荒もん屋で買うたんや(京の茶漬)
  • 割れても末に買わんとぞ思う(崇徳院)
  • 畑の大根を抜いておりました(七度狐)
  • また流されそうじゃわい(質屋蔵)
  • 宿替えの夢を見ております(口入屋)

これらの楽しいサゲには、一般の人が落語に感じるイメージ自体が溢れている。
だが、いずれの噺も、これでないとオチないというものではない。
「高津の富」や「はてなの茶碗」など、サゲあっての噺本編のようにも思えるが、冷静に考えれば決してそうではない。噺のテーマはすでに終了していて、サゲはおまけに過ぎない。
「動物園」など、虎が出てくるサゲを変えることなど考えづらいが、このサゲのために噺が存在しているわけでもない。独立したサゲである以上、差し替えは可能である。
いずれもサゲのデキ自体はいいので、錯覚は起こすかもしれないが。
サゲを変えたら、落語が根本的に変わるのかというと、別にそうとも限らない。サゲのレベルをあえて落としても意味がないから誰も作らないが、自信があれば新たなサゲを作ったって別にいい。
サゲというのは、そんなものだ。

さて、「サゲの分類」というと必ず出てくるのが故人の桂枝雀。
枝雀は、「仕草落ち」「逆さ落ち」「トントン落ち」「考え落ち」などという、既存のサゲの分類を非論理的だと言って切って捨て、自分で新たなサゲの分類をこしらえた。
「間抜け落ち」と「仕込み落ち」では、サゲを捉える視点がそもそも異なるから、非論理的だと言ったのだ。
わからなくはない。間抜けな野郎がサゲに関わるから「間抜け落ち」。この視点は、登場人物の言動の瞬間にある。
他方、あらかじめマクラで情報を仕込んでおくから「仕込み落ち」。今度は、視点は一席の落語全体を俯瞰した場所にある。確かにバラバラだ。
サゲの分類について検索すると、いまだに枝雀シンパが多いことがわかる。
「謎解き」「ドンデン」「合わせ」「へん」という枝雀が作った四分類、私も一応理解はしている。
本編の内容とサゲが、聴き手の腑に落ちると「謎解き」「合わせ」であり、本編の内容に対しサゲがそれていっておかしな感情が生じると「ドンデン」「へん」。

ホンマ(日常)と離れ(非日常)とが、接触する、または離れることにより笑いが生じるという理屈。
「池田の猪買い」を例にとると、息を吹き返した猪を指して、「どうじゃ客人、まだ新しいやろ」というサゲは「へん」に分類される。ホンマと嘘とが急に離れてしまうというサゲ。
まとまるべき話の筋道の中で、急に「んなあほな」という嘘が出てきて、離れて終わるのが「へん」(変)。
他方、「急に」という部分にフリがあって、ホンマと嘘が一瞬接近するなら「ドンデン」となる。
愛宕山のサゲ、「小判はどうした」「忘れてきた」だと、「ドンデン」。
人間カタパルトをこしらえて谷底から戻ってきた幇間の一八。「んなあほな」という状況から、今度はストーリーに引き戻される。
本編のストーリーで述べられた世界観と話の筋道が、サゲの際に「ホンマ領域」「ウソ領域」に別れるかあるいは一致するかというのが、枝雀の分類の大きなテーマである。

***

枝雀のサゲ分類について、翻訳したうえでサラッと解説します。
オリジナルのものはWeb上にたくさん出ています。ここで取り上げるのは、あくまでも丁稚が解釈し直したものである点お断りしておく。
要は、落語の展開において、要素Aと要素Bが、近づくか離れるかによって笑いが生じるということである。要素A・Bは私が便宜上名付けたもので、枝雀は語っていないのでこれも念のため。
枝雀理論にわかりにくいところがあるとすれば、「合う」とか「離れる」って、なにが? という点。この点、真に統一されていない気がする。

要素A(青)はストーリーに沿っているもので、要素B(赤)は、その裏を走るものである。
枝雀分類では最初からA・Bが寄り添っているようだが、伏線を張っているものを除くと、Bは多くの場合サゲ付近でいきなりやってくるものだと思う。
だから上の図では、点線で表した。

他にも、オリジナルには「ホンマ領域」など言葉が溢れているが、気にしなくていいと思う。

「鰍沢」や「刀屋」のサゲ、「お材木で助かった」を例にとると、「南無妙法蓮華経」(お題目)が要素A(青)で、筏が要素B(赤)である。
お題目とお材木を掛けている、古来よりあまり評判のよくない「地口落ち」。
評判はともかく、AとBとがマッチングしたから、この場合「合わせ」に分類されるだろう。

理屈の大好きな私、枝雀の分類には一見惹かれそうだと自分でも思う。最初に発見した功績については、深く敬意を払う。
だが結局のところ、だからなんなのだという感想を持つ。前座噺を研究するうちに、枝雀分類は落語全体を考えたとき、成り立っていない理屈だと確信するに至った。
上方落語は、東京よりもサゲへの期待度が高いと思われる。上方落語だけ見ていると、枝雀分類は妥当性を持つようにも、一瞬思える。
しかし、東京風のアッサリしたサゲに適用されないような分類は、分類とは言えない。落語のサゲの基本構造が、東西でまったく変わるというならいざ知らず。
サゲの多くが、噺と独立したどうでもいいものだと捉えたうえで枝雀分類を眺めると、途端に魅力を失って映る。

先の「池田の猪買い」の場合、枝雀は本編からサゲへの流れを無理に観念して「虚実のマッチングがないからこれは『へん』」だと分類する。
だが実のところは、「関係ない」ものについての関連性を無理に述べているだけだ。
唐突なサゲは本編とは特につながっていない。このサゲでなければならない必然性もなく、その意味で多くの落語のサゲを代表する内容ともいえる。
アホの喜六が、新しいかどうかをやたら気にする点において、本編とサゲとがつながっていそうにも思える。実のところ、サゲを効果的に振るために、喜六が肉の新鮮さをとってつけたように気にしているだけの話である。

枝雀が切り捨てた「とたん落ち」とか「ぶっつけ落ち」とかいう分類、その視点は確かにバラバラだ。とたん落ちの場合は、「本編からサゲへの移行が途端だ」ということを説明していて、これは視点がサゲを客観的に眺める位置にある。
だがどちらかというと、切り捨てられたこの分類法のほうが、私にはまだ腑に落ちる。「とたんに落ちた」という事象について、客の気持ちをも含めて一応の説明は果たしているからだ。

***

「幇間腹」のサゲを取り上げてみる。これは主に東京落語。
幇間腹オリジナルのサゲは、「かわが破れて、なりませんでした」。
上手く作ってあるサゲではあるが、実演においては特にどうということはない。
あらかじめ、古典落語ってそんなもんだねという認識のもとで聴く、前座噺についているサゲと同レベルの、どうでもいい内容だと思う。
これは枝雀の分類では、太鼓の革と、幇間(たいこ)の皮とを掛けているので、「合わせ」ということになるだろう。唐突なサゲなので、「ああなるほどね」と客を納得させる「謎解き」ではない。

立川生志師は、「幇間腹」のこのサゲを改変している。「また足袋のコハゼだ」。
若旦那が悪いシャレで、盃いっぱいの酒に足袋のコハゼを入れ、金だと思った幇間の一八が必死で飲むエピソードが、誰の幇間腹にもある。
それを引用し、祝儀をくれたと思った若旦那が、再度悪いシャレをして逃げていったというサゲに変えているのである。なかなか気が利いているし、噺の工夫の上手い例として、大きく敬意を払う。
この改変したサゲを枝雀分類に当てはめるなら、一八が体を張った甲斐があったと一瞬思わせておいて、やっぱりくれたのが「足袋のコハゼ」なので、「ドンデン」ということになるだろう。ドンデン返しだ。
だが、先に登場したネタを仕込みに使ったということで、客の気持ちをその仕込みにマッチングされる機能も有している。そう考えると、「合わせ」とも言える。
「ドンデン」と「合わせ」とは、ベクトルが逆を向いたサゲのはずだ。だが、サゲの位置づけをちょっと解釈するだけで、どちらにでも取れてしまう。
枝雀自身は、解釈によって分類が変わることは否定しなかった。とはいえ、「へん」「ドンデン」どちらかだというなら方向性が同じだからまだいいが、「合わせ」と「ドンデン」のどちらにでも取れるというのは?

枝雀の分類を、立川生志師の作った新たな「幇間腹」のサゲにあてはめた際、なぜ矛盾が生じるか。
「視点がバラバラ」な古い分類を批判した枝雀、だが枝雀の分類においても、実は視点が二種類ある。ここで枝雀に対し、のちの世からブーメランを返す。
「合わせ」「へん」という分類が語るものは、「前振りなく急に結末が来る」というものである。だから実のところ、説明しているのは「サゲが本編と切り離されている」ことだ。視点はサゲにあって、本編のほうを向き、唐突だということだけ述べている。
いっぽうで、「ドンデン」「謎解き」という分類の場合、その視点は、噺本編とサゲを俯瞰してトータルに理解しようとする場所に置かれている。点でなく、線である。
「合わせ」「へん」の視点はサゲ自体に、「ドンデン」「謎解き」の視点は、サゲ付近を主にした全体にある。つまり、統一したはずの視点がもともと統一されていない。
そのように矛盾をはらんだ分類だから、「幇間腹」という噺のサゲが、「合わせ」「ドンデン」という、矛盾する分類としてともに成り立ってしまう。

***

まだこの段階では、レアケースかもしれないので枝雀を切り捨てないでおく。
枝雀の論理を最大限活かそうと努めてみる。論理を少々修正して、視点を統一する。
視点統一の一環として、仕込みの存在は無視し、にも関わらずサゲの視点は全体に置かれるものとしてみる。そうすると分類が「ドンデン」にも「合わせ」にもなるという矛盾は生じなくなるはずだ。
この修正枝雀分類に当てはめたとき、生志師は「幇間腹」のサゲを、元の「合わせ」から「ドンデン」に変えたということができる。
だが、生志師の工夫の見事さはさておき、この噺は、サゲ改良で根本的な変貌と進化を遂げたのであろうか? 絶対に違うと思う。
生志師のサゲ改変、わかりやすくていいものだが、元のサゲより圧倒的に優れているとまではいえない。
生志師の工夫の成果が物語っているのは、尽きるところ「サゲはなんでもいいんだ」ということである。サゲを変えたからといって、噺家さんが力を入れる噺の雰囲気が大きく異なるわけではない。
生志師は、先人から伝わる噺を最大限活かす手法として、昔ながらのサゲを変えてみただけだ。大分類を大きく引越してしまうような、アバンギャルドな発想を持って挑んだわけではないだろう。

枝雀がサゲの分類に向かったのは、落語会の演目を考える際に、分類がツかないようにしたいという発想があったようである。すでに「謎解き」は出したので、次の噺は「ドンデン」にするというふうに。
だが、客の気持ちを尊重しようとして展開したこの分類、すでに矛盾が含まれている。
なにかが一致したり離れたりして、客が一瞬不安になったり安心したりしたからといって、それがなんだというのか。
サゲの印象で落語の印象が決定されるのは、サゲのために存在しているごく一部の噺だけではないのか。

結局、枝雀の四分類に対する私のコメントはこうだ。

  • ドンデン・・・・世間の人が落語の代表だと勘違いしている噺の一部には当てはまる
  • 謎解き・・・・・同じく、ごく一部の噺には当てはまる
  • 合わせ&へん・・多くの落語において、サゲが本編から独立していることを証明している分類

「合わせ」「へん」は、だから分類ではない。これらのサゲ、基本的には本編から独立していて、たまに本編を活かしたデキのいいサゲもあるが、その場合でも本編にぶら下がるサゲ。
間違っても、サゲのために噺が存在しているわけではない。

サゲが落語において絶対の存在でないことは、「冗談言っちゃいけねえ」という冗談落ち一発で済ますことも可能なことでも証明できる。それもまた、立派な落語。
サゲを本編と一体化して分類しようとするから矛盾が生じるのである。

次は大胆にも、サゲの分類を新たに起こしてみる。

丁稚のサゲ分類

いまだにシンパの多い枝雀のサゲ分類の否定をしてみた。
分類自体は見事に映るのに、一体なにがいけないのだろう?

  • サゲを意味的に本編と一体化し過ぎる
  • 分類の出発点として、サゲの機能を重視し過ぎている
  • 視点を統一していると言いながら、視点が二種類ある
  • なにとなにがマッチしたり、離れたりするのかが明確に語られていない
  • サゲの効果は落語によってまったく違い、客の気持ちに与える影響も大きく異なるが、分類のためその違いを無視している

丁稚のサゲ分類をしてみます。
ただし、分類の仕方はまるで異なるため、この分類自体により、直接枝雀を否定できるわけではない。間接的には否定できると思っている。
そもそも、なぜサゲを分類する必要があるのか? 「必要ない」でもいい。
だが、「分類に意味はない」の立証のためには、分類に手を出してみる必要がある。分類の結果なにかがわかる、かもしれない。

サゲを分類するにあたり、新たな要素を導入してみたい。以下のとおり。

  • サゲと本編との、関係性の有無
  • サゲの社会的認知度
  • サゲ自体のデキのよさ

こんな要素を導入した分類は今までにないだろう。
「認知度」「デキ」というのは、噺そのもののデキではなく、サゲ自体についてのものである。
本編のデキが悪い落語は、残っていないから論じるに不適当である。分類に値いするのはデキのいい落語だけ。
だが、デキのいい落語の大部分には、どうでもいいサゲがついている。そのことに、誰も文句は言わない。
いっぽう落語の世界には、気の利いたサゲもある。サゲのデキで、本編のイメージはさして左右はされないのだが、分類をするにあたっては、デキの識別が欠かせないと考える次第。
識別といっても、「このサゲは10点だが、このサゲは6点」というような評価を持ち込むわけではない。もっとざっくり「気の効いたサゲ」「どうでもいいサゲ」だ。落語を聴いたとき、サゲそのものから生じる気持ちは、この二種類しかないと思う。

丁稚のサゲ分類。以下八種類。

  • サゲ至上
  • 結末至上
  • 粋なサゲ・メジャー
  • 伏線回収サゲ
  • 粋なサゲ・マイナー
  • 仕込み落ち
  • 適当サゲ
  • 記号サゲ

ネーミングのダサさについては、とりあえずお許しいただきたい。いいネーミングを思いついたら差し替えます。
次から実際に分類していきます。

いよいよ丁稚のサゲ分類をしてみる。理屈の好きな方はしばしお付き合いください。

1)「サゲ至上」・・・サゲが肝になっている噺

  • 「今何どきだい」「四つで」「いつ、むう、なな、や・・・」(時そば)
  • 冷やでもよかった(夢の酒)
  • あんた今どんな夢見てたの(天狗裁き)
  • 自分のキンを掴んで寝てた(夢金)
  • こんなぐるぐる廻っている家もらっても仕方ねえ(親子酒)
  • あとからひげがぞろぞろっ(ぞろぞろ)
  • 甚兵衛さん二つになって上がってきました(真二つ)
  • 鍼医堀田とケンちゃんの石の一席でございました(結石移動症)

多くの人が持つ、落語のサゲのイメージ。サゲを言うために噺が存在している。「小噺が長くなったのが落語」という説は、この分類と次の2にだけには当てはまる。
新作落語の場合も、サゲから思いついたならここに分類される。
極めて重要なサゲなのであるが、この分類のサゲを持つものがすなわち落語だと勘違いすると危険。「落語におけるサゲの重要性」を一生懸命論じたくなる。
このサゲを持つ噺は、決して落語のメインストリームにはない。
肝になったサゲをやらないことがまれにある。瀧川鯉昇師は「時そば」を途中で、三遊亭愛楽師は「親子酒」を途中で切ってしまうことがある。
サゲのためにできている噺を最後までやらない面白さ。落語はそれだけ自由なのである。
サゲをやらないのはさすがに極端だが、当初はサゲのために存在したであろう噺本編の細部が充実していくに従い、噺の目的であったはずのサゲがだんだん独立していくこともあるように思う。その結果、元は噺の肝だったのに、3~5あたりに変わってしまったネタもあるだろう。喬太郎師の「結石移動症」もそうだと思う。
「夢の酒」など、本来が小噺なので「冷やでもよかった」というサゲは明らかに噺の目的のはずだが、印象としては必ずしもそうでない気もする。
サゲは、落語本編から常に独立しようとするらしい。

2)「結末至上」・・・サゲを論じる前に、見事な結末を論じたい噺

  • ときどき猫が三両で売れますんで(猫の皿)
  • あっしが先生のうちに、先生があっしのうちに越すんでさあ(三軒長屋)
  • ああ申さんと、夜通し寝かしよらん(宿屋仇)
  • この話には終わりがねえんです(のっぺらぼう)
  • おそばが羽織着て座ってました(そば清)
  • アマっこ反省して坊主になった(松山鏡)
  • 天ぷら屋の竹さんだ(春風亭一之輔版・新聞記事)
  • そうか給水塔が幽霊だったんだ(給水塔の怪談)
  • (廃校跡地で)なんか気合入れる声が聞こえるらしいのよ(熱血!怪談部)
  • 若えよな、還暦には見えねえ(午後の保健室)

1とよく似ていて、いわゆる落とし噺。とはいえこの「結末至上」の場合、サゲそのものは結末を説明する機能しか果たしていない。
こういう噺について「見事なサゲだ」という感想は当てはまらない気がする。いや、そう言ったっていいのだけど、その際は一瞬「サゲ」の定義が二重になり「結末」の意味に置き換わっている。
だから、こういう噺については「見事な結末だ」「見事な構成だ」と論じたい。
落語というより物語だ。逆に言うと落語っぽさは薄れるかもしれない。
柳家三三師の改作「元犬」もここに入るだろう。
結末の場合、サゲと違って勝手に本編から離れていくことはないようだ。

3)「粋なサゲ・メジャー」・・・気の利いたサゲで、サゲ自体が落語を知らない人にも有名

  • さんまは目黒に限る(目黒のさんま)
  • 今度は濃いお茶が怖い(饅頭こわい)
  • よそう、また夢になるといけねえ(芝浜)
  • 消えるよ、消える・・・(死神)
  • 抱かれてる俺はいったい誰だろう(粗忽長屋)
  • 自分の頭の穴に身投げしてしまいました(あたま山)

これらのサゲ自体、よくできていて有名なため、サゲが噺の肝だと思われがちである。見事なサゲによって噺が語られがちだし、噺もサゲに向かって進んでいく恰好。
だが、1・2の「サゲ至上」「結末至上」とは本来持った性質が異なり、サゲ・結末のために本編ができあがっているわけではない。
サゲと本編は本来独立していて、理論上は差し替え可能である。
元来の性質が1と異なるにも関わらず、社会的認知度の高さにより、サゲの性質が近接するのである。
これも種類としてはそれほど多くはない。だが、その構造はわりと普遍的なもの。

4)「伏線回収サゲ」・・・本編のテーマや伏線を活用したデキのいいサゲ

  • 穴が隠れて屁の用心になります(牛ほめ)
  • 掛け値しねえと女房子が養えねえ(かぼちゃ屋)
  • 夏の医者は体に障る(夏の医者)
  • 三両なら俺が上がる(穴どろ)
  • だからおいらを玄能でぶつと言った(子別れ)
  • なら弁慶にしておけ(青菜)
  • ああ、中もピンだ(看板のピン)
  • 別荘~・・・(疝気の虫)
  • 屋敷を出るおり、聴かずに参った(粗忽の使者)
  • ああ、うちにも帰れねえ(ろくろ首)
  • 陸に上がったら船頭ひとり雇ってください(船徳)
  • よう考えたら余に姉はなかった(松曳き)
  • 猫によおく謝ってくんねえ(猫の災難)
  • こんなに化け物使いの荒い家は見たことねえ(化け物使い)
  • 半分は垢でございます(半分垢)
  • 案じなさるな、まだ漏るほどではございません(やかんなめ)
  • 心配すな、わしも5千円で雇われた(動物園)
  • また足袋のコハゼだ(立川生志版・幇間腹)
  • (主人の死因は)ストレスです(ストレスの海)
  • 「そんなに飲んじゃ肝臓壊すぞ」後ろを振り返ると、そこには誰もいなかった(路地裏の伝説)
  • 飛んで帰る? いやいや、俺は都バスで帰るんだ(天使がバスで降りた寄席)

「伏線回収」と言ってはみたが、噺本編のちょっとしたクスグリを利用する程度でもここに含めてみた。「演芸図鑑」の収録客が「あー」と声を発するタイプのサゲである。
デキはいいものの、噺を支配するサゲではない。むしろ、構造から言うと本編に寄生したサゲである。
「夏の医者」などうまく作ってあると思うが、「地口落ち」だと貶められがちでもある。どこに着目するかでサゲの評価も変わる。
間違ってサゲ至上主義者になってしまうと、これらの噺もまた、サゲのために本編があるような錯覚を覚えてしまいかねない。
看板のピンなど、これ以外にサゲを作る余地はなさそうに思えるが、オウム返しでの「失敗」が噺のテーマであり、「中もピン」は落とし方の一例に過ぎない。青菜と同様。
本編を活かした上手いサゲであるが、その上手さが着目されることは少ない。なぜなら、客が衝撃を受けるのは「落語」そのものにであり、サゲにではないから。
それでもこれらの噺は、サゲの上手さ、伏線の張り方など、サゲ自体語る価値があるものだ。
改作や新作落語で、新たにサゲを作りたいときには、このサゲのように本編からヒントを拾ってくるのがいいと思う。
サゲ自体の社会的認知度が高まれば、3に変わるかもしれない。
さて。せっせと分類しておいてなんだが、これらのよくできたサゲも、実は意外と「適当」である。サゲのデキの良しあしは別にして、客の気持ちとしては7の「適当サゲ」と大差なかったりもする。

5)「粋なサゲ・マイナー」・・・噺本体から独立して成り立つ、気の利いたサゲ

  • そんなに真似がしたいなら、六尺棒持って追いかけてこい(六尺棒)
  • あとでよく調べたら、千早の戒名だった(千早ふる)
  • どうりでうまく騙りやがった(転宅)
  • 時候の変わり目にまた来てくれ(夏泥)
  • ならば二番を煎じておけ(二番煎じ)
  • うち帰って自分の分の言い訳しなきゃならねえ(言訳座頭/睨み返し)
  • 気の早いお芋だ(芋俵)
  • この正直者め(禁酒番屋)
  • 胡椒がなかったさかい、トンガラシくべたんや(くっしゃみ講釈)
  • 汽車で来ればよかった(胴乱の幸助)
  • なんだ、ニンジンっておいしいんですね(ハンバーグができるまで)

4の「伏線回収サゲ」よりも、意味的にサゲが本編から独立している度合が大きい。
枝雀の分類では「へん」「合わせ」に分類されるものが多いだろう。「ドンデン」「謎解き」に分類されるものもあるが、本編との関係で見れば、伏線回収をしない、唐突なサゲに過ぎない。
3の「メジャー」との違いは主に社会的認知度の差。構造はほぼ同じで、3に比べてデキが悪いサゲだというわけではない。
もう少し適当に作った、取ってつけたサゲだと、7の「適当サゲ」になる。ただ、その差は意外と小さい。この点、前述の「伏線回収サゲ」と同様。
このあたりの見事なサゲであっても、結構適当な要素が強い。

6)「仕込み落ち」・・・マクラで仕込んでおく。これはまったく先人の分類のまま。

昔の風俗・言葉が現在分かりにくいので、あらかじめ準備しておくサゲ。
「佃祭り」の梨のくだりなど。
他に「蜘蛛駕籠」「藪入り」。
「居残り佐平次」の「おこわに掛けた」はわからない。圓生は説明していたが、現代では作り替える人が多い。
準備しておく以上、サゲとしての劇的な効果は薄れる。
そのハンディがあっても、サゲになお価値があると思うから仕込むのであるが、サゲ本来のデキを問わず、やがて滅びていくものである。
聴き手の内面を考慮したとき、他のサゲとは自然と種類が異なる。客にとっては、マクラを回収できただけだからだ。
従ってこの分類は独立させた。
極めてまれに、劇中にサゲのヒントが入るものがある。「提灯屋」がそう。

7)「適当サゲ」・・・前座噺・新作落語を中心に「圧倒的多数」

  • なに、天使? だからわしを迎えにきた(ナース・コール)
  • キラー・・・やっぱりカタキだ(白日の約束)
  • きゅうじょうは嫌でごんす(力士の春)
  • 複数、盆に帰らずだ(孫、帰る)
  • チワワ争えないものだ(バイオレンスチワワ)
  • じゃあ、ぶらぶらしてるんだ(露出さん)
  • 母だけじゃないぞ、チチだって強いさ(戦え!おばさん部隊)
  • 断崖絶壁も落語も、最後は落ちるものなのよ(船越くん)
  • これがほんとの「老人解雇」だ(老人前座じじ太郎)
  • ゴルフクラブだけにおばさんに振り回された(座席なき戦い)
  • わいの女房がミケやのうて後家になってまうがな(バイオレンス・スコ)
  • あのおっさんテロリストや~(アーバン紙芝居)

そこまで続いた噺を半ば強引に切ってしまう機能を持つ。実は落語のサゲのメインストリーム。
どうでもいいサゲであることを証明するため、あえて新作落語から引いてきた。聴いた端から忘れてしまうことの多いサゲ。
サゲだけ並べてきてもポカンである。このサゲから、落語本編を聴いてみたいという気になるだろうか? もし、なったとしても、サゲに寄せた期待を、噺本編から得られることはない。
だが、実のところ古典落語だって、前座噺を含めて大部分はこんなのだ。多少デキがよければ3~5に分類されるが、なに、大きな差はない。
よくできたサゲの素晴らしさを語りたくなることを否定はしない。だが、どうでもいいサゲの噺との差は思いのほか小さい。
適当サゲは、客の心中に与える効果も乏しい。客は、噺の終了をどうでもいいサゲで知る。
これらのサゲを、先人の分類に基づき「間抜け落ち」などと、または枝雀の分類に基づき「ドンデン」「合わせ」だなどということは可能。だが、そんなことをしても意味はほとんどない。
大事なことだが、どうでもいいサゲだからといって、噺の価値が低いわけではないのだ。
古典新作を問わず、名作にもどうでもいいサゲがついている。思わず涙せずにはいられない、新作人情噺の「孫、帰る」についているのもこんなサゲ。
本編がきちんと作れれば、いいサゲができればもちろんそれに越したことはないのだが、適当なサゲでも別に構わない。古典落語の人情噺「鼠穴」や「藪入り」を思い起こせばいい。
上記に記す気にもならなかった、もう、本当にしょうもないサゲのついた名作もたくさんある。昔昔亭桃太郎師の新作などみなそう。
ちゃんとしたサゲを付けようという努力すら放棄しているのではないかと思うが、でも噺は面白いし、サゲでずっこけるというわけでもないのだ。
サゲのレベルが低いという論評もできなくはないが、私は、サゲ本来の目的に自覚的なしょうもなさなのだと理解する。
むしろ名作を強引にサゲてしまう、その機能にこそもっと着目してみたいものだ。

8)「記号サゲ」・・・サゲといえないサゲ

  • 冗談言っちゃいけねえ
  • ワアワア言うております
  • ***の一席でございます
  • 残念ながら、お時間でございます

形式的な中身がないので分離した。噺を終了するお知らせにはなっている。
ただし、「宮戸川」の「お時間でございます」などこれでウケてしまう噺もあるところが、ちょっと分類上、収まりの悪さとして残る。
これらの珍しい噺だけのために、さらに細かい分類はできない。

(再掲)

上記1~8の分類を紹介する順序が少々おかしい気がする。いろいろ考えて並べたのだが、かえって意味不明の順序になってしまった。

***

落語のサゲを分類してみた。その結果、サゲの分類に大きな意味はないし、そもそもサゲ自体さして重要でないという結論に達した。
なかなか有意義だった。
本当はさらに現在、東西で掛けられる噺の頻度を分析し、そのうち何パーセントが「適当サゲ」なのかを明らかにしないといけない。そこまではなかなか難しいが、私の体感に沿った結論は出せたと思う。
上方落語が、まだ若干気になっている。私の否定した枝雀のサゲ分類は、上方落語に限定すると、なおも当てはまりやすいことは確かだ。
もう少し上方落語も掘り下げたいのだが、古典はともかく、私には上方の新作落語のインプットが若干欠けている。
新作落語についてはどうしても東京主体になることをお断りしておく。上方の新作のほうが、サゲに注力する傾向は強いようには思うが。
常日頃、東も西も落語に根本的な違いのないことを私は力説しているので、東西で違った分析が成り立つことは避けたい。
これはまた、今後の宿題としてちょっと取り上げるかもしれない。

ちなみに、「サゲは重要でない」がゴールではない。調べれば調べるほど、今度はなぜ、さして重要と思えないサゲにこれだけ見事な機能があるのかという謎が湧いてくる。
落語について考えるのは実に楽しい。

さて、既存のサゲ分類との関係だが、上記1~5については、先人の分類を排斥するものではない。
特に6は先人のままである。
枝雀の分類については、視点の統一を言い出していながら実際には不統一だという根本的な欠陥があり、個人的には否定してしまいたい。
ただし、上記1~5に限定していえば、その範囲内で「ドンデン」だの「謎解き」だの引き続きやってもらっても、別に構わないと思っている。
ただ先人の分類も枝雀の分類も、圧倒的多数を占めている上記7「適当サゲ」においては、適用して欲しくない。
適当なサゲを、形式的に分類しても意味はないだろう。

お付き合いいただきありがとうございました。

作成者: でっち定吉

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