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寄席やホール落語に行くと、開口一番で前座さんが出てきて、いつもの前座噺をする。料金の外である。
意外な噺が掛かることはあまりない。前座の分際で意外な噺などやったら叱られるだろうし。
上の一覧のうち、掛かる頻度は同じではなくて、前のほうにもっぱら偏っている印象がある。
「前座のうちから大ネタを覚えてはいけない」ということはまったくなく、むしろ奨励されるようだ。だが、前座のうちから客の前で大きなネタを披露することは認められない。
いつもの噺ではあるが、前座噺は元来面白いものが多く、上手い前座さんが語れば結構面白い。
前座噺は次のような特徴を持っている。一部、私の独自見解も入ってます。
- 噺として完成度が高い
- サゲがきちんとある。ただし、サゲが肝になっている噺はない。
- ちゃんと演じればウケるようにできている
- 登場人物が限られており、演じ分けが比較的容易
- 声を張る稽古、口慣らしに向いている
- 日常世界からは飛躍しない
- 女性はあまり登場しない。出てもおかみさん。
- 酔っ払いも登場しない
- 季節感はない
理屈っぽい私は、当ブログにもたびたび書いているのだが、落語には「日常からの飛躍」が必要だと考えている。
飛躍していながら、同時に飛躍した架空の世界におけるリアリティがあると、非常にいい落語になる。
新作落語の場合に顕著だが、古典落語でも同じこと。
いっぽう前座噺の場合、日常からの飛躍が少ない。しかしながら、だからこそ残っていると思われるのが前座噺なのだ。
そこが面白いし、場合によっては物足りなくもある。
とにかく、前座噺について考えてみるのはとても楽しい。
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前座噺の特徴を挙げてみた。
だが、前座噺とされているが、実は前座には難しい噺もあるのではないだろうか?
逆に、前座噺ではない噺の中に、前座噺の特徴を持っているものがないだろうか?
ちょっとそういった疑問を落語界に対して軽くぶつけてみます。
前座噺の定義自体、結構いい加減なのは承知の上。
「時そば」は、前座噺に分類されることが多い。だが実際には前座はまずやらない、偽前座噺である。
季節ものだという点、それからサゲが噺の肝になって重要であるという二点を考えあわせると、前座噺であるはずないとも思う。
その一方で、本当に前座は「時そば」やっちゃいけないのだろうかという疑問も常に持っている。「オウム返しで失敗」という、落語の基本中の基本の構造があるので。
季節ものには違いないが、比較的冬以外にも掛かる。登場人物も少ないから、演じ分けも易しいはず。
仕込みが少々大変だが、「道灌」だってそれはそうだ。やっちゃいけない理由はよくわからない。
プロの噺家の考えはわからないが、時そばを前座がやりづらい理由、まったく別にひとつ気が付いた。この噺、多くの人が掛けるけども、その分手が入り過ぎていてスタンダードな「これ」という形がよくわからないのである。
それほど多くは聴かないが、披露目の席などで前座が掛けることがあるのが「一目上がり」。めでたい噺。
あまり聴かない噺だと思っていたのだが、TV録画のコレクションも増えてきた。軽く楽しい噺。
導入部分は「道灌」と被っている。
だがこの噺、かなり難しいのではないか? 八っつぁんが話をする相手が、隠居→大家→先生→兄貴と次々変わっていくのである。それぞれ性格もまるで違う。
いや、やって欲しくない、聴きたくないというんじゃない。なんでこの難しそうな噺を前座がやって許されるのか、よくわからないという素朴な疑問。
教養溢れるフレーズの宝庫だという点では前座噺らしいともいえるのだけど、この噺が許されるなら、他に許される噺はたくさんありそうだ。
まあ、雰囲気でOKだったりNGだったりすることはあるんだろう。
ご隠居や先生と、八五郎が会話するのは落語の基本。
「やかん」「千早ふる」もそうだが、「雑俳」や「浮世根問」「だくだく」なども前座がやって叱られることはないはず。
「浮世根問」なんて、そもそもまったくすたれていて聴いたことないけど、聴きたい。
いっぽう、「だくだく」はきっとこれから前座に流行りますよ。落語の妄想を、聴き手が許容しつつあると見ている。
泥棒ものの前座噺がないところをみると、もしかするとダメか。でも、泥棒は付け足しで、前半部も重要な噺なのでいいと思うのだ。
といっても、妄想噺でも「湯屋番」は前座はやっちゃだめだろう。若旦那も出てくるし、妄想の中の色っぽい年増も登場するから。
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湯屋番はダメだろうが、若旦那ものでも前座がやって許されるんじゃないかと思うのが、当ブログでもかつて取り上げた「六尺棒」。
登場人物が大旦那と若旦那の二人だけ。若旦那は酔っぱらってるわけでもない。
若旦那ものとはいえ、この噺はコント仕立て。特に親子の情愛など描く必要はない。
失敗ではなく逆襲としてだが、楽しいオウム返しも入っている。サゲは気が利いているが、だからといってサゲに向かって進んでいく噺でもない。
楽しい噺なのにそれほど聴かない。前座でいいから寄席で聴きたいんだけどなあ。
登場人物(実際に自分の言葉で語るキャラ)の少ない噺のほうが前座噺には向いている。そういう点で「ろくろ首」なんてどうだろう。
与太郎ものは意外と前座噺に少ない。与太郎というと「牛ほめ」だが、これは字の読めるわりと賢い与太郎。「金明竹」の松公もちょっと違う。
「かぼちゃ屋」(これも前座噺に分類されたりするけど)みたいな本格派の与太郎は難しいようだ。
だが、おじさんと与太郎を演じ分ければ形になりそうな「ろくろ首」、やったらダメだろうか。
お嫁さんの首が伸びるシーン、前座さんの踏ん張りどころになりそうだけど。ただ、今でも柳家の噺家さんしかやらないようで、定番のネタではない。
もうひとつ婚礼つながりで「高砂や」なんてどうだろう?
謡い調子が入るが、そこさえクリアすれば。それに謡いなど、らしければいいものだし。
いかにも落語っぽいバカバカしい世界でいいと思う。
婚礼ものだと他に「松竹梅」なんかもいいはず。これは実際、前座噺のカテゴリに入るようだが聴いたことはない。まあ、真打からもあまり聴かないけど。
与太郎物に戻ると、噺自体まったくすたれていて、今やると珍品の扱いになってしまうが「にゅう」なんてのがある。
落語らしい適当な世界で、前座が掛けていたらちょっと面白そうな噺。
道具屋が、気に食わない客に対し与太郎キャラの男を使者として送り出す噺。バカとハサミは使いよう。
「口の中ににゅうができた」という、わりとどうでもいいサゲも前座噺っぽい。
「犬の目」も雰囲気が前座噺っぽい。これも、やって叱られることはなさそうだ。クルクルポン。
戌年で「元犬」はよく掛かるようだが、「犬の目」は掛かっているのだろうか?
あと、寄席ではよく聴く相撲噺の「大安売り」。よくできた噺で、かつ登場人物も少ない。前座がやってもウケそうだ。
「ぞろぞろ」なんて噺にも前座噺の雰囲気がある。ただ、雰囲気が非常に大事な噺なので、前座にはしんどいか。それとも、ウケなくても気にしなくていいと考えるか。
登場人物が二人の「猫の皿」はどうだろうかと思った。
だが、この噺みたいに、サゲのために噺全体ができているようなものは、前座噺としてはふさわしくないようだ。
噺の本筋とは関係ない、取ってつけたような適当なサゲのほうがいいのだ。
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「壺算」は前座噺とは言わないだろうが、前座から聴いたことがある。やって叱られるような噺ではないのだろう。
ただ、人を騙して成功する点が前座噺っぽくない。前座噺の主人公は、できれば失敗したい。
そもそもまず聴くことがないのだけど、「ん廻し」という噺にも、前座噺の要素が盛りだくさん。
上方の噺だが、むしろ東京落語に似つかわしい「ワイガヤ」で、掛からないのがもったいない。よく掛かる「寄合酒」の後半にあたるそうなのだけど、雰囲気は結構異なる。
そして「ん廻し」にはなによりも、前座噺にふさわしい「言い立て」がある。
<先年 神泉苑の門前の薬店 玄関番人間半面半身 金看板銀看板 金看板根本万金丹 銀看板根元反魂丹 瓢箪看板灸点>
前半である「寄合酒」も、寄席に向いた噺ではあるが、酒が絡むと、飲んでなくても途端に前座噺っぽくなくなるように思う。
「反対俥」も、前座がやっていいかどうかは別にして、若い人のほうがいい噺。飛び跳ねたりするから。
正反対の二人の車屋のメリハリがよく、前座の修業に向いた噺だと思うのだが。
ただ、これも時そばと同様、スタンダードなこれ、という形が不明ですね。
昔は威勢のいい車屋、間違って到着するのはせいぜいが大宮だったようだが、最近では日本一周してしまう。
世界観に飛躍がありすぎると前座噺には向かなくなるのだ。
粗忽ものは、前座には普通難しいと思うだろうか。「粗忽の釘」とか。
ただ、「堀の内」なら比較的、勢いでできそうな気がする。わりとスタンダードな型がある噺だし、ちゃんとやればウケそう。
私が聴いてないだけで、どこかで前座が掛けてそうな気がするが。
前座が語るのは、古典落語じゃないとダメということもないと思う。ダメだという師匠はいっぱいいそうだけど。
前座のできる新作落語を考えてみたが、それほど見当たらなかった。
やれて円丈師の「フィッ」、彦いち師の「みんな知っている」くらいかな。
古い新作落語なら、古典化が適度に進んでいて可能かもしれない。「生徒の作文」「ラブレター」「英会話」など。
前座噺に向いた新作が作れたら、間違いなくレジェンドになる。ただ、新作の場合、日常から大きくはみ出る噺が多くて、すでに前座噺とは向いてる方向が違うわけだ。サゲの付け方なんかは似てるけど。
新作落語ではないが、埋もれた噺を掘り起こした「復刻落語」の中には、適度に古典落語っぽさがあり、前座がやってもよさそうなのがある。
柳家喬太郎師は「擬宝珠」「綿医者」「茶代」などなど復刻した。師の復刻落語は、古典・新作に並ぶもう一本の見事な柱である。
復刻落語、復刻する人の考えあってのことなのだろうが、見事に前座噺の特徴を捉えていると思う。特に「茶代」は単純な噺だが、その世界観は素晴らしい。
落語大好きの喬太郎師、前座噺に対して溢れる愛情があり、それが肚の底まで沁みついている気がする。
この項はこれで終わりですが、前座噺のことを考えていたら、今度は「サゲ」について書きたくなりました。近いうちに。