radikoプレミアムでもう1回だけ生喬師の「百年目」聴こうと思っていたのだが、うっかりすでに配信が終了してしまった。
なみはや亭、1週間聴けるときもあるのに、今回みたいに放送翌日に終わってしまうこともある。まあ、仕方ない。
記憶を元に書いていきます。
せっかくなのでYou Tubeで聴ける、生喬師の師匠、先代松喬の「百年目」を参照しつつ。
全体的によく似ている。師匠の追善で弟子が掛けたぐらいで、似ていて当然。
だが受ける印象は多少違う。微妙なズレが立体視に貢献してくれていい。
先代松喬の噺は実にいい。
ただ、非常にスタンダードっぽい落語に見えて、子供や女を、声で演じ分ける点が変わっている。
特異なスタイルだが、そのわりに違和感はまるでなく、楽しい個性と感じる。
生喬師も、このやり方を多少引いている。
生喬師の、小言の気持ちよさについて昨日は触れたが、これが師匠譲りであったことにも気づく。
師匠のほうは、最初から小言の内容だけで勝負している。番頭、もともと人が悪くなさそうな。
弟子のほうは、よく聴いたら嫌な番頭なのだが、そう感じさせない造形。
店を出るとガラッと場面が変わり、朴念仁の番頭がたちまち変身する。
この噺の最も劇的な場面。
冴えない客が実は左甚五郎であったというのに似た、劇的な変身。
それにしても百年目、この後の展開が根本的に不思議である。
「えらいとこ見つかった」⇒「どないしよ」という、番頭の心の動きは誰の目にも明らか。
だが、「クビになるぐらいヤバいことをやらかした」という描写が、一切ないまま話が進むのである。
客が「番頭、おおかた使い込みよったで」で思いながら付き合うのは勝手。でもそんな事実はない。
帳面を調べられても、もとより穴はない。ではなぜそんなに番頭はおびえているのか。
昼間仕事をサボったからか。まさか。
結局番頭は、「大店の一番番頭的価値観」を裏切ってしまったことに、自分の気持ちが収まらないのだろう。
だが旦那は、そこに筋道を付けてくれた。それでええのや番頭どんと。
むしろ、もっと粋な旦那遊びをしなはれ。そして、栴檀として難莚草に露を下ろしなはれと。
旦那が再発見した番頭、ちっとも固くなかった。柔らかすぎるぐらい柔らかい人だった、本当は。
これで安心してのれん分けが任せられる、そういう主人としての安心も垣間見えるのだ。
カネの使い負けをしたらあかんと旦那。しかし昨日はカネの使い負けはなかったようやなと、鋭い旦那。
このくだり、師匠・松喬のほうにだけ入っていた。
師匠の方法論を忠実に活かしてきた生喬師、ここだけ抜いている。
なぜだか、想像はできる。
旦那が番頭を許すにあたって、具体的に、個別に逐一許していくような流れにはしたくなかったのではないか。
旦那が番頭を見守る目線は、もっと抽象的・包括的な性質のもの。それが押し付けがましくなく、いいということか。
ちょっとシーンを遡る。
朝になって番頭を呼ぶ旦那。
「すぐ行くっちゅっとけ」という番頭の返答を、そのまま取り次いで叱られる小僧。
「うちの番頭どんがそんなものの言い方をするお人か」と旦那は返す。そして、小僧が反論する前に、さらに畳みかけている。
「よしんば言うたにせよ」、お前の伝え方には問題があると小僧を叱るのだ。
この部分、人の叱り方として好きだなあ。
小僧にしてみたら、番頭の言ったままを伝えてなんで叱られるのかと思う。叱られたのは、旦那が「自分がウソを言っている」と誤解したせいだと理解する。
そう思ったままなら、叱られて素直に聞けることはない。
だが、小僧の内心の言い訳も先刻、旦那に封じられてしまうのだ。
ここで旦那から、「米の飯がどたまのてっぺんに上ったとは貴様のことじゃ」という有名なセリフが投げつけられる。
関係ないのだが、春風亭百栄師の新作落語、「弟子の強飯」で引用されています。
栴檀と難莚草のエピソードは、極めて嘘くさい。今さら言っても仕方ないことだが。
間違いなくいい内容なのに、そら嘘だろと思ってしまう。
このために旦那の語りが、必要以上に説教臭く聞こえてきてしまうことだって、ないとはいえない。
だが生喬師のやり方は、まったく逆らわない。
本当かどうかはわからないがこんなエピソードがひとつある。そう断って聴かせている。
先の、小僧の釈明を待たないという部分と、この旦那の断りようとは同種のものだ。
解釈を固定した、ゆるがせない説話を施したいわけではないということだ。
人間の距離感がとてもいい。
旦那は、番頭に自分の理念を押し付けようとは一切していない。またこの主人は、押し付けることが商売においていい結果をもたらさないことを熟知している。
判断するのはあくまでも番頭の側である。
適切な距離感があると、それをつかみ損ねることもある。番頭の誤解は、つかみそこねた関係性のもたらす幻影だ。
結局、演者自信に、話を押し付ける気がないということなのだと思う。
こうした人間同士の関係性に、師匠と弟子との関係性も重ね合わせて見てみたい。
丁稚としてやってきた頃の、子供時代の番頭さんのエピソードは、涙なしには聴けない。
ここに主人の親心が見えてくるではないか。
非常にデキの悪い、寝小便たれの子供がここまで立派になった。
番頭をいとおしむとともに、旦那のほうは自分の教育論と奉公人への接しかたに、改めて自信を持つところである。
実に深い噺であります。
生喬師は、ちょくちょく東京にやってくるような人ではない。
だが一度、その高座を聴いてみたいものですね。