福袋演芸場「破壊落語」

毎日更新「丁稚定吉らくご日常」ですが、先日「サゲ」について書くという壮大なテーマを果たし、いささか燃え尽き気味になってしまいました。
「壮大なテーマ」って自分で言ってるだけじゃないのか・・・
ともかく続いて、「新作落語」についてちょっと書こうかなと思っているのですが、まだまだその中身がふわふわしています。

4月30日の池袋演芸場の早朝企画「福袋演芸場」のテーマは「破壊落語」。
これに出向いたのは、別に新作落語を研究しようとしてのことではない。もっと即物的な事情で、単にブログのネタが切れてしまい、なんでもいいから聴かなきゃと思ったからです。
ブログも、義務で書くようになったらいよいよおしまいですな。まだかろうじて、義務まで行ってないですが。
とはいえ結果的に、大変刺激的かつ有意義な会でありました。新作落語とはなんなのかというふわふわしたものが、スコーンとど真ん中に落ちてきたかもしれない。
近いうちに、まとめられそうな気がします。

オープニング/ふう丈さんの「破壊落語」に対する謝罪記者会見
天歌    /洋服のまま。大量の手拭いを使った一席/ヤクザのティッシュ配り
あんこ   /客席から舞台に登場/古典設定の「奉公」の物語
花いち   /扇子を五本くらい使用/噺家とその奥さんの物語
(仲入り)
やなぎ   /客に背中を向けたままの一席/修学旅行の引率の先生もの
ふう丈   /座布団に命を与える/伝統と新作落語との闘い

(※ あんこさんのは、後で気づいたのですが上方落語の「鬼の面」でした)

通常、新作落語の演目名、わからないときは検索して調べる。
私のブログにも、そうした検索でのご訪問、多いです。そして私も、他のブログにお世話になっている。
だが今日は、もう、調べようとすらしません。
演目名がわかると、とりあえずはその名前をコアにして、その周辺になにかがくっついてくる、気がする。
だが今日の演目について、そんな作業はしなくていい、しないほうがむしろいい気が、強くしている。
私も、「池袋で聴いたあの、誰それのへんな噺」としていったん肚に収めたい。
ひと様のツイッターには全部演題出てたのだけど、いいやもう。

池袋演芸場は自称ホームグラウンドなのだけど、年末以来。それに、旗日限定の「福袋演芸場」は初めてだ。
鈴本の早朝寄席、末広亭の深夜寄席などと同じ、二ツ目さんの企画である。
今日の世話役は三遊亭ふう丈さん。
落語協会の噺家さんはなじみになりやすい。この日の五人で、初見は花緑師の弟子、柳家花いちさんだけ。
なんと満員だ。開演前は、なぜか知らないが、三遊亭天歌さんの師匠・歌之介師のCDが流れていた。

幕の向こうで、芸人さんたちが一番太鼓、二番太鼓を口で入れるというふざけた開演。
とにかく遊びまくる二ツ目さんたち。
噺はしないが、モギリ担当の柳家かゑるさんが「今日は林家時蔵嫌い芸人企画です」などと茶々を入れて挨拶。時蔵師は、あんこさんのお父さん。
幕が開くと、冒頭はふう丈さんの謝罪会見。
オープニングは写真撮っていいということなので撮ったが、こういうときに私のスマホは必ず反逆する。以前も、文蔵襲名興行のときに撮ろうとしたら保存先がいっぱいで。今回も同じトラブルで、一枚しか撮れなかった。いつも保存先はSDカードになっているはずなのに。
あんこさんが司会進行を務め、あと三人の噺家が客席から内輪ネタの質問をぶつける。
「池袋演芸場の品位がまた下がるとは思わないか」「朝からやる内容か」「どうして渋谷らくごじゃないんだ」などなど。
他に、「わん丈とは仲悪いのか」「らん丈はいつ真打になれるんだ」「二ツ目の途中で名前変えるのか」。二ツ目の途中で玉々丈からめぐろになったのは兄弟子だが、らん丈師についてはなんのことやらさっぱりわからない。
なにを謝罪する会見なのかというと、タイトルを「実験落語」にしたかったのだが、師匠・円丈からOKが出なかったのだと。師匠のモノマネ入りで説明するふう丈さん。
オープニングからゲラゲラなのだが、なんだこれ。こういう、特にハイテンションな気分を求めてやってきた一日ではなかったので、大いに戸惑う。
お笑いライブだが、客は年寄りが多い変な光景。その眺め自体十分面白いのだけど。

三遊亭天歌

いつもは客席の照明が非常に明るい池袋。
謝罪会見は客席を暗くしておこなったが、そのままの暗さで本編スタート。
トップバッターの三遊亭天歌さんは、記者会見の質問役をした、Yシャツ姿。そのままの格好で座布団に座って一席開始。
そのことになにか必然性があったかというと、なかった。戸惑いが増す。
袋に入れた大量の手拭いを出してきて、座布団の前に積み上げる。この手拭いがなにかと思ったら、配布用のティッシュの見立て。
人材不足に悩むヤクザが、ティッシュ配りでリクルートしようという噺。
破壊落語というにふさわしい内容。面白いのだけど、ちょっと聴いて疲れたなあ。
おかしな世界観を作り上げて、ギャグをたくさん入れると新作落語になるのだろうか? そうじゃない気がする。
もちろん、「新作落語はこれが正解。あとは間違い」なんて言いたいわけではない。
ただ、客との接点をどこに求めるのかという話。新作好きの私、噺家さんが攻める高いポイントに背伸びしてついていくことはできるのだけど、背伸びしたくなるかどうかは噺家さん次第。背伸びすると疲れるし。
先日も黒門亭で天歌さんの新作を聴いたのだけど、そのときも今回も、背伸びしたくなるかというとなあ。非常にセンスあふれる人なのはわかるが。
ヤクザがティッシュでリクルートをする世界に、説得力があるかないかなんだろうと思った。いや、説得力なんかそもそもあるはずないので、要は噺家さんの肚ひとつ。
バカになって語れば、そういう世界なんだと思って客は聴かざるを得なくなり、成功するはず。
とはいえ天歌さん、照れもなくバカになって語っているのに、変な世界のリアリティがなぜか出てこない。
噺はこの先まだまだ続くがと断って、途中で終了。

三遊亭あんこ

女流の林家あんこさんは、しん平師の弟子。海老名の林家の匂いが皆無の人である。それがなんだと言われると困りますが。
登場の仕方は客席後方からと破天荒だが、中身のほうはわりとまともな、ストーリー重視の新作。古典の設定。

(※ 新作落語だと思っていたので訂正しませんが、古典落語「鬼の面」です)

あんこさん、オープニングの記者会見で、真面目な顔で謝罪会見を進めるワルノリセンスは結構好き。
師匠しん平宅に住み込みで修業したマクラから、口減らしのために奉公に出された女の子の噺。
厳しい日々の生活で、故郷に帰りたいと願う毎日。そんな中で手に入れた、母に似たおかめのお面を毎日眺めていたが、意地悪な番頭さんに、なまはげにすり替えられてしまう。
感心したのだがあんこさん、まったく笑いのないダレ場を堂々乗り切れる人である。
先日別の二ツ目さんの高座で、噺のダレ場でもって客が全員落っこちてしまったというのに遭遇した。しかし結局、新作だからどう、噺の作りがどうだという理由ではないのだ。
自信を持って、じっくり語りかければ客は付いてくる。
惜しむらくは、セリフ廻しがくどい。説明過剰というタイプのくどさではないのだけど、初めて聴くストーリーの進行が客に十分に伝わっているのに、ストーリーを説明する言葉がやたら重複しているのである。
言葉をもっと刈り込めるならば、この語り口、なかなか得難い才能だと思った。
寝ている人が多かった。気持ちよいので寝るということもあるので、これ自体はなんとも言えぬ。
登場のときに手に持っていたお面は、ストーリーに関係あるのだろうと思ったが、ついに使わない。あらら。それが破壊?

柳家花いち

この日最大のヒットが、仲入り前の柳家花いちさん。
この人だけ私は初めて聴く。役者の滝藤賢一に顔がよく似ている。
花緑一門は、上から下まで本当に外れがない。育成がよほどいいのか。だから、初めて聴く人でも期待してしまう。
たぶん花緑師の、ピンポイントでの指導が上手いのだと想像する。噺家として伸びていくには、結局のところ本人自身の創意工夫がないとどうにもならぬ。師匠にできるのは、効果的な注意だけ。
優れた一門だが、新作に力を入れているのはこの人だけだろうか。
花緑師の弟子、数が多いので寄席では交互出演。だが、本人を含む上のほうの弟子は、深い出番に入れてもらえた。
古典をやろうか、思い切って新作をやろうか悩み、立前座にも相談したうえで新作を掛けて楽屋に戻ったら、出番前に愛想のよかったよその師匠が目を合わせてくれなかったという自虐マクラ。
自虐が面白い噺家さん、なかなかいそうでいない。自虐ネタは、生々しくなく、すっとぼけて喋らないとまずウケぬ。
客にかわいそうと思われたらもうダメ。この点、花いちさんはまず成功している。

楽しい自虐マクラからの本編。
カップルがレストランに来ている。夫婦であり、旦那は売れない噺家である。
結婚一周年を祝うにあたり、旦那は料理を注文せず、全部の料理と飲み物を、扇子と手拭いを使った仕草で表現しようというのだ。カミさんいわく、「なに、この大人のままごと」。
噺家の所作そのものをギャグにするというのは、円丈師や喬太郎師など、新作パイオニア的な人もたまにやっている。だが、所作自体が噺のテーマになっている作品というのは初めてだ。面白いところに目をつけたものである。
赤い手拭いを使い、中から扇子をニョキッと出すカニの見立ては大爆笑。
それから、開いた扇子二本の間に手拭いを丸めて入れるホタテ。中手も入ってこれは大ウケ。
そして、酒も飲まないのに仕草だけでべろべろになる噺家。
爆笑の落語に、人情噺っぽいいいサゲまでついていた。
いや、面白かった。
新作落語にもいろいろある。とんがったのも、ベタなのも。
その中で、客が揃って喜ぶ新作というのはなにか。客の好きなものがテーマになっていれば、楽しい噺になるかもしれない。
寄席に来ている人が圧倒的に好きな可能性が高いもの、それは落語。落語の好きな人にとってはたまらない内容の新作であった。
そして花いちさん、この日のメンバーでセリフ回しがもっとも古典落語に近い。単純に古典落語に近いというより、落語の修業をもっともストレートに積んでいるということだろう。
そして、その空気がウケるのである。
この日三席目で、私とピントが一致した感じ。

柳家やなぎ

柳家やなぎさんに関しては、黒門亭で聴いた「そば清」がかなり面白かったので、新作派という印象は持っていなかった。
BSトウェルビの「ミッドナイト寄席」で掛けていた新作は聴いたが、こういうメンバーに混じってやる人だとは知らなかった。さん喬一門は、惣領の喬太郎師の影響なのか、新作好きの人が多い。
仲入り後、幕が開くとやなぎさんがすでに着席していて、ただし客に背中を向けている。
圓朝忌には、奉納落語があり、客がいても噺家さんは背中を向け、圓朝に向かって語る。やなぎさんにもこの順番が回ってきそうなのだということで、その稽古も兼ねてだと。
後ろを向いたまま羽織を脱ぐやなぎさん。
出オチによるウケどころはここでもうおしまい。あとは、客を背中で笑わせないといけない。
幸い、効果的な繰り返しを多用した、面白い噺。修学旅行の引率教師が、最終日の前に生徒の前の朝礼で語る内容。
その場にいない校長先生を話の繰り返しに活かした、非常にうまい作り。

客に(文字通り)背中を向けた柳家やなぎさんの破壊落語の一席。
内容は面白い新作なのだが、後ろを向いて喋るっているおかげで、空気がなんだか変。
客も、視点をどこに持っていったらいいのかわからない。
噺家さんが前を向いて話しているから、そこに視点が合う。それにより、噺に向かい合うのである。
正面を見ても、やなぎさんの大きな背中があるだけ。すると、見てても仕方ないので、気がそれる。
噺家さんの表情・仕草から生まれるはずの落語の空気が、客席に届かない。
正々堂々やって十二分に面白いネタなのにね。それだと「破壊」にならないけれど。
まさかそのままおしまいということはあるまいと思ったら、ネタ的に、ちゃんと後ろを向いている必然性があったのはよかった。
最後の最後に客のほうを向き、後ろを向いていたので見えなかった隠しギャグを披露。そして、そのギャグとは無関係な、噺自体のアッというサゲを言って降りる。
面白かったけど、寄席で普通にやって、老若男女誰にでもウケるネタだと思う。隠しギャグも、額に落書きしないで普通の落語の中で使えるし。
意外性は十分で話のネタにはなるけども、普通にやってくれたほうがはるかによかった。一回だけ使えるギャグというのは、落語には向かない。何度も同じ噺を聴いて、何度も笑うのが落語だもの。新作もそう。

やなぎさんの新作は、最初から最後までひとり語りである。まあ、上下を振る必要のある噺は、後ろ向いてはできない。
各エピソードの中に他者のセリフが入っているわけでもない。この点、古典落語の世界観と断絶している。
先日TVで聴いたのもこのパターンで、これはひとり芝居から来ているのだろう。
古典落語の上手い噺家さんが、落語と断絶した噺を作るのだ。まあ、幅が広いのは決して悪いことじゃないのだが。
私はひと昔前、イッセー尾形のひとり芝居が大好きだったが、あるときから観にいかなくなった。
イッセーさんが嫌いになったなんてことは全くないのだが、気が付くとチケットを買わなくなった。
よく寄席に出向くようになったのは、これと時期を同じくしている。
個人的にこういう経験があるので、落語のほうがひとり芝居よりもカバーする範囲がはるかに広いことを私は知っている。
かなり面白いやなぎさんの新作に戸惑ったのは、広い落語世界の中に狭いひとり芝居が出てきたためらしい。客に想像力を駆使させ、刺激を与える面白い噺なのだけど、落語という融通無碍なものを武器に持っているのに、範囲を狭めるのはもったいないなんて思ったり。
なんてことを、後でいろいろ考えてしまった。
もっとも、じゃあ新作落語っていうのは古典落語と似た世界、似た範囲にとどまっているべきなのか?
そうなのかもしれないという気もちょっとする。それじゃつまらないだろうとも一方で思う。結論は出ない。

三遊亭ふう丈

トリの三遊亭ふう丈さんは、押し入れで埃を被っていたという小型の電子ドラムを高座に持ち込んで、ドラム小噺。着物はデニム地。
ここまで破壊落語に皆さんが付いてきてくださるとは、と感謝の意。
扇子でドラムを叩き、「隣の空き地」「ハトがなんか落とした」のシャレをぶっ放す。
かなりウケていたが、このドラムは引っ込めて落語本編へ。

伝統を大事にする噺家と、新作メインの噺家とを、座布団を挟んで闘わせる。
そして、新作派に奪われた座布団が喋り出す。
古典と新作の戦いというのは、春風亭百栄師の「天使と悪魔」などにもみられるテーマ。座布団いじりは、兄弟子の白鳥師や、彦いち師などがやっている。
ふう丈さんは、円丈師の背中を追い、相当自覚的に新作落語の世界を生き抜いているようである。
この点、古典を上手く演じ、幅広い落語の世界を器用に渡り歩いている弟弟子のわん丈さんとはかなり生き方が違うようだ。だから「記者会見」で「仲悪いんですか」という質問が飛ぶのだろう。
しかし、とんがった新作と見せかけつつ、私に言わせれば、古典も新作もない、「落語」の世界観に比較的忠実な内容だ。これこそ、私の求めてやまない世界観でもある。
これはご本人からすると、狙い通りの路線なのか、破壊落語といいつつ、不本意ながらそこで世間と折り合いをつけているのか、よくわからない。
意地の悪い見方をすると、落語の釈迦の手のひらの上で遊んでいる孫悟空と言えなくはない。
閉まる幕を、フラフープを使って幕の外に抜け出て、遊ぶふう丈さんであったが、こうした遊びも落語の世界に吸収されてしまう。
吸収されてそれでいいような気がするいっぽうで、せっかく頑張ってとんがっているのになあとも思う。

それにしても、たかだか2時間の席だが、帰ってきて疲労困憊なのに気が付いた。
エネルギーみんな吸い取られてしまった。若手の新作恐るべし。

いい落語は後を引く。私は当ブログのお陰で、落語を聴いた後数日に渡りよかった落語を追体験できているので、この点はとても幸せである。
だが、この日はその後が違っている。
ふう丈さんでハネ、間違いなく、高揚して池袋演芸場を後にしたのだ。だが、毎日書き記すうちに、その高揚感が徐々に変容してしまった。
この日の五席、花いちさんを除いて、日に日にそのパワーが衰えていく。消滅のスピードが、普段よりとても速い。
うーん。「新作だから」なのではないと思う。
池袋演芸場では、新作台本祭りもあるし、昨年末の芝居も新作メインだった。その際に、新作だからといって楽しみが後で急速に消えたなんてことはなかった。
だから、二ツ目さんたちのこの破壊落語、新作派の真打の落語と比べ、なにかが足りないわけだ。そして、若手のよくできた古典ともまた。
古典も新作も落語は一緒と思っている私であるが、この日の新作は、その私の思いから勝手に離れていく。
離れていった先になにかがあるといいのだが、結局のところ破壊を尽くしても、白鳥師や彦いち師、百栄師たちがやっている落語よりも先には行けないのではないか。
「行けないから遊んでいても無駄」なのか、「遊んでいるからこそ、あの領域まで到達できる」のか、それはわからない。
引き続きこれにつき追求したく思う。
答はある程度実はわかっている。結局、聴き手は「落語」が好きだということ。
「お笑い」も好きな落語ファンもいる。私もそうだ。
だが、好きな落語が別のものに変わっていると、たとえ面白くても、目的にしている落語と違ってきてしまうのだ。

作成者: でっち定吉

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