新作落語を取り戻せ

投打で変わらぬ活躍を魅せる大谷翔平を尻目に、私の落語道は現在ちょっとした危機を迎えている。
私も今まで二刀流でやってきた。古典落語と新作落語の。
聴いてるだけの奴が大谷翔平と比べるない。それはさておき。

思えば幼少の頃から、先代柳家小さんの古典落語と、春風亭柳昇の新作落語とをTVで好んで聴いていた。だから、両ジャンルの落語が好きだったし今でも好きだ。
古典落語も新作落語も、突き詰めれば同じ世界にあるものだと思っている。
だが、好みは色々。人さまのブログを読むと、新作落語が掛かってがっかりしている人がいたりする。本当に出来の悪い新作だったのかもしれないが、それを新作落語全般の責任にすることはないだろう。
「落語は古典じゃないと」なんて意見を聞くと、心の底から哀しくなる。
いっぽう、「落語は新作以外認めない」っていう人はまずいないですね。
ということは、落語の好き度合は、新作を認めるか否かに比例するともいえるわけだ。「落語は好きだが講談は大嫌い」なんて人がいたら滑稽だろう。新作嫌いというのは、落語の入口でさまよっているレベル。

と、常日頃認識しているにもかかわらず。
私、直近に限ると古典落語ばかり好んでいる気がする。
古典派の師匠の醸し出す空気がたまらないのだ。70代の噺家さんから強く感じるが、いっぽうで若い古典派の二ツ目さんにも、醸し出す人がいる。
先日行った新作の会、福袋演芸場「破壊落語」は、そんな中で非常に象徴的だった。
大変面白くはあったのだが、その前後で聴いた若手の見事な古典落語と比較したとき、この新作派の若手たち、いったいどこへ向かっていくのだろうという疑問が、ふつふつと湧いてきたのである。
冷静に振り返ると、すでにその前から古典メインに切り替わっていたのかもしれない。自らの落語を聴く姿勢自体を裏切るものであって、これは由々しきことなのだ。
古典新作両刀使いの師匠でも、最近は古典のほうに着目しているように思う。
まあ、落語なんて理念でもって聴くもんじゃない。好きなものだけ聴けばいいんである。
でも、広い入口があるのに、ジャンルで入口を区別するような聴き方だけはしたくない。

実際には、私自身、新作落語の中でも区別をしている。
落語世界に属する新作と、コント世界に属する新作がある気はしている。
コント的新作は、あまり買わない。でも、それって古典の尺度で新作を測っているのではないのかな?
そんなことも考える。

秋には、大ファンである古今亭駒次さんの昇進披露もある。聴き手として、新作落語をぜひとも我が手に取り戻しておかなければと今思っている。
だが、取り戻すのは少々骨かもしれない。
意図せずして古典中心にシフトしている要因は、新作落語のほうにはない。最近圧倒的な古典落語を聴いていることに主因があるのである。
となると、圧倒的な新作落語を聴かないと取り戻せないではないですか。
圧倒的な新作落語を聴きに行かねばなりません。

そんなことを考えている中、「しんうら寄席」に春風亭百栄師匠が出るという。
圧倒的な新作落語が聴けないものでしょうか。
その話に続きます。

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カテゴリー: 日記

作成者: でっち定吉

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