しんうら寄席の春風亭百栄

だいなも/ 道具屋
百栄  / 茶金
(仲入り)
百栄  / 誘拐家族 / 鼻ほしい

この、新浦安駅前でやっている落語会、7~8年くらい前まではたびたび出向いた。コンパクトな会場と、広いシートが快適なのである。値段も2,000円とリーズナブル。
席数が60席と少ないのに、当時は売り切れるということはなかった。おかげで、白鳥、白酒、馬石、二ツ目時代の一之輔など、いろいろ聴かせてもらった。
落語協会だけでなく、四派の売れっ子噺家さんが多数登場する会である。
5年くらい前から、早めに売り切れるようになってしまい、自然ご無沙汰している。
だがツイッターでまだ残っているのを知り、当日に電話したら、ラス一のシートが手に入った。
かように百栄師匠というのも、コアなファンが多く一般ウケがやや微妙な人ではある。
私の新作落語を取り戻すというテーマがある中、百栄師匠でいいのか? いや、面白いだろうが、「圧倒的」かどうか。

と思っていたら、新作落語は短い一席だけだった。
この日の全体の内容、決して不満に思ったわけではない。
茶金はなかなか楽しかったし、三遊亭圓生が寄席でよく掛けていたという「鼻ほしい」、百栄師がやるとは聞いていて、聴けてよかった。
質の問題ではなく、「新作落語を我が手に取り戻すぞ」という強い意志のもとで出向いたので、少々ずっこけてしまった。もちろん、噺家さんには大きなお世話。
ただ中身はともかく、結構早く終わってしまった点については、下りのエレベータで乗り合わせた年配女性たちもやや不満そうであった。もう一席、短いのでいいので続けてやってくれれば、十分満足したに違いないのだけど。
この会、大ネタが多いので、それに慣れている客からするとなおさらなんだろう。
ともかく、新作落語を取り戻すための旅はまた今度。昨日と全然記事内容がつながらないのですが、行く前に書き上げていたので仕方ない。
とりあえず、短かった落語会に触れてみます。

この会のシニア層のお客さん、拍手の仕方が面白い。登場時に手を叩き、一旦ぴたっと全員手を叩くのを止めて、お辞儀する際に再度拍手する。
私もこうしている。だが、第三者的に見ると、全員揃って手を叩くのを止めるあたりがなんだかな。普通は叩き続ける人がいるもんだ。
本来論からすると、噺家さんが座布団に座ってから初めて手を叩くものである。
入場時に手を叩いている時点で、すでに本来ルールではない。なのに、ある種のマナーなのか、全員が統一して同じ手の叩き方をする。いや、私と同じ作法について文句なんてないですよ。でもなんか変だよねっていうこと。

あと、以前は殺風景だったが高座に後ろ幕が付いている。長屋の外観を錯視で立体的に見せるもの。いい感じ。
前座は百栄師の弟子、だいなもさん。名前のいわれは不明。落語協会の香盤にはまだ名前がない。余計なお世話だが、最初の弟子は廃業している。
先日黒門亭のマクラで百栄師が話していた、アキレス腱断裂により、巣鴨スタジオフォーでの初高座を逃した弟子というのは、このだいなもさんのことだ。
まだ、特に面白くはない道具屋。別に構わないです。
だが、落語協会でも傍系にある一門だからか、珍しいシーンが道具屋に入っていたのは興味深い。
与太郎に、口を閉じて鼻で息をしろというシーンは、珍しくはないけど久々に聴いた気がする。
それから、与太郎の商売場所の地面が濡れているので、ほうき(竹ぼうきなんだろう)で掃いて、すぐ乾くからそれから座れというシーン。これは初めて聴いた。
ちなみに百栄師のブログによると、この翌日、落語協会2階の勉強会で、弟子をデビューさせようと思っている旨が書かれている。
ということは、このしんうら寄席がフライングでの初高座だったのだ。といって、特に感じるところはないけど。

茶金

百栄師はいつもの「山口でなくて春風亭」「日本一汚い百栄」マクラから。
それは手短に、趣味・道楽の話から「茶金」に。上方落語の「はてなの茶碗」である。
いきなりこの時点で、新作ではない。まあ、両刀使いの百栄師、一席は間違いなく古典だなとは思ってたけども、この古典が今日のメインだった。
新作派なのに、まあ、噺をいじらない。驚いた。
そもそも百栄師、TVに出るときはほぼ新作なので、あまり古典は聴いたことがない。
寄席で強情灸を聴いたことがある。あと、落語研究会で流れた「疝気の虫」はこのブログでも少々取り上げた。
別に古典落語で全然いいのだけど、びっくりするほど噺をいじらない百栄師に戸惑う。百栄師、本気で古典落語大好きな人なんだなあ。
茶金の舞台は京都である。江戸っ子の八っつぁん以外はみな京都言葉。師の新作落語で聴いて知っているが、上方言葉は非常に上手い。
いじらなすぎる古典落語に戸惑いつつも、力の抜けた百栄師、非常に面白い。
喧嘩っ早い八っつぁんとの対比で描かれる、茶金さん他京都の鷹揚な人々、なんだかとぼけていて楽しい。
別に京都の人だからといってとぼけているわけではないが、百栄師の上方言葉が妙にマッチする。
ここで膝を打つ。そうか、百栄師、新作落語を掛ける人の中でも、極めてストーリー重視派なのである。
対立軸はクスグリ派とでも言おうか。さすがにストーリーを重視しない人はいないにせよ。
百栄師の落語は、新作も古典もストーリー重視なのだろうか。
実にストレートな落語を聴きつつ、だんだん面白くなってきた。
茶金を東京で聴くことはあまりない。だが、改めて聴くと、次々と和歌がかぶさっていくあたり、非常に教養に溢れた噺である。

誘拐家族

仲入り後の百栄師、「まあ、一席二席。そんなに長くやりませんから。大人が我慢できる程度です」と宣言して新作へ。
初めて聴く「誘拐家族」。いかにも軽い新作。話の雰囲気で、大ネタではないので続けてもう一席やるんだろうと思う。
尺の短い噺でもあり、新宿末広亭あたりで掛かりそう。

百栄師の新作の共通項は、よくできた小説や映画のように、世界の構造を聴き手に小出しにしていくこと。そのサスペンスが客を引き付ける。
だんだんと世界の構造がわかってくる。落語の舞台は、この世とよく似ているが、ルールがほんの少々違う世界。
女子中学生を誘拐し、電話で「50万円寄越せ」と言う男。50万あればいいんだそうだ。おまけにバカなので名前まで名乗ってしまう。
しかし、当の誘拐の被害者である娘に「私そんなに安っぽくない」と、500万円まで値上げを要求される。
誘拐がきちんとできるような人間ではないので、実行にあたっても、面白がっている娘の協力が必要なのだ。
娘の声を聴かせろという、会社経営の父親。しかし思春期の娘は父親と話したくない。
最終的には、意図せずに家族の絆を結びつける役割を果たす誘拐犯。要は「締め込み」ですな。

ふわふわとしてふざけた噺であるが、世界からのズレ具合が大きくないので、聴き手の共感も得られる。落語の好きな年寄りならば、楽々ついていける。

面白いのだが、百栄師の落語としては、強烈度合が控えめであるなとも思ったり。私の事前のテンション次第でもあるのだが。
百栄師、一席終わり、座ったまま自己解説。
この「誘拐家族」は脚本家が書いた噺だが、元の原稿では、場面転換が多すぎた。落語に向いていないので、本人に許可を得て、ばっさり電話の場面だけにさせてもらったそうだ。
なるほど、他のメディアと比較したときの、落語とはなんなのかを一言で物語っている。
手に持った扇子を左右に入れ替えるだけで電話の相手とは上下を交代できる。しかしながら、落語世界においては場面は同一なのだ。
だが、誘拐シーンから描くとなると、場面転換が忙しすぎるのである。
調べると、少なくとも10年前からやっている噺らしい。

鼻ほしい

両刀使いの百栄師であるが、私は師のことを明白な新作派と認識している。SWA解散以降の落語界における、新作キングになれるかもしれない人だと思っている。
だが当の百栄師、「新作落語というものは、東西いろいろな場所で会を開いていて非常に盛んですが、私なんかは古典落語のほうがやっぱり好きですね」だって。
もともと、新作を志して入門した人でないのは知っているが、これだけ見事な新作を数多く掛けていての古典派宣言。腰を抜かしそうになった。
その流れで「鼻ほしい」。噺の存在自体は知っているが、聴くのは初めて。TVじゃできないからな。
TVでなくてもそうそう掛からない。梅毒でもって鼻が欠けた侍というのが、時代にマッチしづらく分かりにくいからだろう。談志は、無礼討ちを町人に逆襲され、鼻をそがれてしまったことにしていたらしいが。
珍しい噺であっても、ストーリーが面白いし、そして百栄師の、鼻から空気が漏れる話し振りが実に楽しい。
気を付けないと、悲惨になりかねない噺だ。だが、障害者差別につながりそうなきわどさはまったく感じない。それは結局、「もし、鼻の欠けた侍がいたら」という落語だからだろう。こういう状況なら、新作で手慣れている。
もし、じゃなくて昔は実際に多数いたわけだけど、百栄師の落語だと生々しくないのだ。
そして、最初に出た茶金と同じく、和歌と返歌が入って教養溢れる楽しい噺。
「禿山の前に鳥居はなけれども後ろにかみがちょっとまします」
「山々に名所古蹟は多けれど、はなのないのが淋しかるらん」、
なんて。
速記は読んだことがあるが、変な噺だなと思っただけだった。サゲも「お前は口惜しいか。わしゃ鼻が欲しい」なんてのだし。
実は、鼻掛け侍(浪人)の妻の心情まで思い起こされる、人情噺でもあるのだった。
鼻の欠けた侍にあえて嫁ぐ女はいないだろうから、結婚してから鼻を欠いたのだろう。しかし、そんな亭主を見捨てないどころか、亭主を傷つけた馬子を手打ちにしようとすらする妻。
男の身勝手の犠牲者にも思えるが、実にいたましいではないですか。

軽い噺でなんだか物足りなく終わったように思ったしんうら寄席なのだが、二三日して思い起こすとしみじみ楽しくなってくる。
先日の福袋演芸場「破壊落語」と真逆だ。あの会は、終わった直後の高いテンションが、日を追うごとにみるみるすぼんでいった。
当ブログの続きものも、出だしと終わりとで、テンションがまったく違っていることがある。
今回のしんうら寄席は、日が経つごとに真価がわかってきた。百栄師の古典落語の腕がきちんとわかった落語会。
いっぽう、私の新作クエストはまだまだ続く。

春風亭百栄1

楽天で購入

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。