司馬龍鳳問題

(全面改稿版)

落語家・司馬龍鳳さんをめぐる騒動に一宮市がコメント 「事実関係を確認しているところ」(ねとらぼ)

なんだかモヤモヤしますね。

役所の非礼は非礼として、司馬龍鳳が本当に落語家なのか、そもそもプロなのか素人なのか、プロの落語家もいろいろとコメント出している。

wikipediaの「落語家」という記事には、東京の四派、上方落語協会に所属する以外の落語家のことも書いてある
(正確にいうと、桂南光師匠などが上方落語協会を脱退したままだったりして、例外も当然のようにあるが)。
「周囲から孤立してプロ活動を続ける者」という項目に、有名どころでは快楽亭ブラック師などの名が並んでいるが、ここにも司馬龍鳳の名前はない。

こういう人は他にもいるのかもしれないけど、ともかく司馬龍鳳はなにをもって「プロ」と名乗っているのだろう。
どこかの団体に所属しているなら一応「プロ」と名乗ってよさそうだ。実質的に活動しているとはいえない人もいるから、鼻で笑われる場合もあるだろうが。
逆に、所属していなければプロと名乗ってはいけないか。それは言い過ぎだとも思う。前述のブラック師や、南光師が天狗連だとは思わない。
しかし司馬龍鳳、実力でもってプロと名乗っているのか? そうではあるまい。噺を聴きもしないのに論評などしてはいけないし、する気もないのだけど、ある程度の実力があるならこんな事件がなくても世間がすでに気づいているだろう。

私がいちばん嫌なのは、司馬龍鳳がその活動にあたり、元の師匠である春風亭柳昇の名を出していること。
独自の基準でもって「プロ」を名乗るなら別に構わないと思うのだが、落語芸術協会の実力者であり、そのシステムの中で活躍されていた柳昇師匠を、利用していいのはシステムの中にいる人だけではないのか?
芸協をドロップアウトした人が、あたかもそことつながりがあるかのように標榜しているのはいいのか?
公式サイトに、「師匠の元を離れた」とか、「フリーの落語家として活動中」などと書いているなら良心を感じるけども。

噺を聴いていないから知らない、司馬龍鳳の実力を疑いたくなるのは、落語の「システム」を利用できない人だからでもある。
落語のシステムを利用できなければ、絶対に実力がつかないと言いたいのではない。立川流は、寄席の否定から生まれたものだ。
しかし、利用できないシステムに替わるなにが、司馬龍鳳の周辺にあるというのか? 想像すらできない。
司馬龍鳳が、寄席に出ている中堅どころの噺家さん、格別上手いとはいえない真打たちと比較して、聴かせるだけの実力を持っていたとしたら奇跡だと思う。

しかも、なんだか知らないが今の名前は平成19年に「襲名」したらしい。
システムの外にいる人が、既存の落語のシステムを表面的に利用している時点で、信用できないことこの上ない。
はっきりいえば詐欺まがいだろう?

司馬龍鳳が日ごろの活動の一環として、自分の子供の通う学校に来て落語をやっていったら、私は本当に嫌だ。学校に抗議に行っても不思議ではない。
断っておくが、素人の落語家が、学校の好意で場所を提供されている、ということだけなら、文句まではいかない。
「これが落語というものだ」と銘打って子供たちに一席聴かせるというのなら、私は耐えられません。

***

役所の非礼に端を発した名古屋の司馬龍鳳の事件、落語界とその周辺を騒がしているだけで、世間を騒がすには至っていないようだ。
「役所が落語家に非礼を働いた」という事実だけがニュースになったとして、「落語=笑点」だと思っている人たちからすると、感想の持ちようがないのだろう。
「役所の側にも同情する点があったのでは」などと、普通は一応考えてみたうえで自分の意見を持つわけだけど、その前の段階で思考停止だ。

柳家東三楼師匠が今回の件のコメントリーダーみたいになっている。
師のコメントは、「前座、二つ目で辞めた人は素人であってプロではない」ということである。落語界では、ごくごく当たり前の意見。
もっとも、「関東では」という留保付きで述べているので、名古屋については最初から当てはまらないのではないかという突っ込みもできるが。

ともかく、この内容のツイートを読んで「なんたる傲慢」と憤る人の存在は容易に想像できる。
「落語界はなんでそんなに閉鎖的なのだ」
「修業の有無で人を切り分け、既得権益にするのか」
という。

東三楼師の師匠は、柳家権太楼。
「権太楼の大落語論」という10年前に出した本で、同じようなことを述べていたのを思い出す。
今、手元にないので正確に参照できないのだけど、俳優など、本業でないのに高座に上がる落語家たちを、切って捨てていた。
NHKラジオで、「笑点には台本がある」と当時のタブーを喋ってしまい、生放送中に歌丸師から脅しを受けたエピソードなど書かれていて、大変面白い本なのだ。しかし、落語家のプロアマを切り分ける部分については、今回の弟子のコメントと同じような、イヤな感じを受けた。
本来的に、噺家さん自身が語っちゃいけない内容なんだと思う。

そういうイヤな感じを世間が持っておかしくないことを十分に理解しつつ、今回の司馬龍鳳の存在は非常に腹立たしいのである。
司馬龍鳳がたとえば、大須演芸場から呼ばれていたというなら、立派なプロだ。
寄席でなくても主としてホールの落語界でもいいが、そこで芸を披露する機会を与えられていない人が、どうしてプロなのか。
司馬龍鳳が主宰していたらしい「特定非営利活動法人 落語普及協会」のWEBサイト、中身が消えている。
キャッシュがあるのだから最近あえて消したのだろう。
キャッシュを見たらなんと、司馬龍鳳の落語動画が載っていた。
内容は、私の想像を裏切るものではありませんでした。

さて、「学校寄席などを主としておこなっているプロ」というものがこの世に存在するのでしょうか。
くどいようだが、自分でプロを名乗り、プロの定義とはこういうものだ、と決めても別に構わない。外野がどうこう言うことではない。
しかし司馬龍鳳、ご自分のことを「東京の二ツ目さんなどと同様のプロ」と自認しているのではないのか?
その肩書が欲しいのなら、やはり芸協の会員のままでいなければならなかった。
ご自分の手の届かないものと同等のものに勝手になるのであれば、その根拠が必要だと思う。そして、根拠はどこにある?

既得権益とかギルドの話ではないのです。

役所の肩を持つ気はない。非礼は非礼であったのだろう。
しかし一宮市役所の本当の罪は、ギャラのことだけ考え、文化事業のために呼ぶ落語家についてきちんと精査しなかったことにあると思う。いかにも役所仕事。
まがいものを呼んだことにより、世間から責められる羽目になったのです。

***

丁稚の定吉は、ひとの悪口は大好きです。
好きだからこそこのブログでは控えています。あの噺家が下手だとか、工夫が足りないとか、そんなことはいくらでも言えます。
だけど言ったからといって面白い記事には、まあ、ならない。何様臭が漂うだけだ。
だけど今度の、名古屋の自称落語家司馬龍鳳の件はねえ・・・もうやめようと思ったのだけど、世間の反応がいささかズレているので書かずにいられません。

今回の件についていろいろまとめがされている。
ことの起こりである役所の非礼自体については、きちんとしたまとめがない。司馬龍鳳が闘病を理由に出てこないから、まとめようもないのだろう。
まとめがされているのは、ことの起こりから離れた、司馬龍鳳がプロの落語家か否かという点だ。

司馬龍鳳の名乗っていた高座名は、その宗家名「司馬龍生」を三遊亭司師匠が預かっているものであった。この件見逃していたが、師はすでに3日にツイッターでその旨公表している。
司師、噂には聞いていたとのことだが、本来その時点でなんらかの対処をすべきだったのでは。それが名前を預かるということだろう。「見逃しておく」くらいの気持ちだったのかもしれないが。
また、引用した「特定非営利活動法人 落語普及協会」のキャッシュには、7月5日のFacebookの内容が埋め込まれていて、そちらに「法人関係者が三遊亭司師匠の許可なく名前を名乗った」ことのお詫びが記載されている。
Webは消えたが、Facebook自体は生きている。

ところで、ひとの意見を読んでいると、「どうして真打になったばかりの若手に頭を下げて許可を得る必要があるのだ」みたいな意見も散見される。名前を預かることに、法的になんの意味があるのだというつぶやきまである。

違うでしょ。問題点はそこではない。
「名前を預かる」ことに法的な根拠がないという前提にのっとり、司馬龍鳳が確信犯的に名前を名乗っているというなら、そういう擁護もありだろう。
世間の非難を恐れなければ、それこそ勝手に「三遊亭圓朝」を名乗ったっていい。
司馬龍鳳の罪は、落語界のシステムに乗っかっていない(乗れない)にもかかわらず、同じシステムを勝手に流用した点にあるのだ。
司馬龍鳳自身が、落語界のシステムそのものを否定しているのではない。それはできない。
自分が落語界の真似事をして、権威のある名前を求め「襲名」までしたのだから、「名前を預かっている人のことなど知らない」とは言えないのである。
権威を身にまとうには、通過儀礼・儀式も必要だ。筋を通さずに権威だけ身にまとうにはどうするか。
一番簡単なのは、権威があるフリをすること。弟子を取ってみたり。しかしながら、弟子を取ってみても所詮は師匠の真似事、らくご伝統ごっこだ。
先日話題になった、自称経営コンサルタントの自称ハーフタレントさんと比べると、世間を欺くスケールが小さいなあ。

「宗家の名前は預かっている人はいるかもしれないが、俺の名前は宗家とイコールではないから知ったことではない」という一部否認も考えられるが、これもちょっと無理。
当代桂文枝(三枝)の文枝襲名と、当代桂文治(平治)の文治襲名はともに2012年であった。文枝襲名のほうがわずかに早かったが、桂の宗家は東京の文治。
文枝襲名において、桂平治師ほか関係者に挨拶なく、襲名を決行したはずがない。

なにも、落語界の権威を全面的に肯定しなくとも、司馬龍鳳がインチキであることは導けるのだ。
結局、偽物はそれらしく振る舞うことしかできない。
プロかどうかを論じる前にまがい物なのだから、こそこそと名古屋周辺のみで活動しておくしかなかったのに、どこかで自分自身本物の噺家であるかのような勘違いを起こしたのだろう。
勘違いしなければ、非礼を受けても大人しくしていたはず。自らの勘違いで、落語ごっこは終焉を迎える羽目になった。

春風亭柳昇師匠が草葉の陰で泣いてます。
桃太郎、昇太といった柳昇門下の噺家さんのコメントを聞きたいところである。

作成者: でっち定吉

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