感動するマインドはどこから来るか

オリンピック観てますか。
仕事もしなきゃいけないから、日中外出したりもしている。だが、柔道の金メダル、銀メダルはおかげさまでリアルタイムで観た。
直前まで散々ぼろくそ言われた大会が、加速的に盛り上がっていくのを目の当たりにし、とても嬉しい。
私の予想通りではあるが、今回については勝ち誇る気にはならない。高藤選手が決勝で負けてたら、たちまちしぼんでいた程度の盛り上がりかもしれないし。

意地でも観ないという人も多いのでしょうな。ラサール石井や雲水みたいに、ケチつけるため開会式観てた人もいるようだが。
噺家のツイッターを巡回しても、五輪にまったく触れていない人もいる。
橘家文蔵師も露骨に触れず、触れるときは悪口。
文蔵師だって、日ごろはMLBやベイスターズの話題を書いてるスポーツ好きじゃないか。どうしてそこまで頑なな。
無頼な魅力の文蔵師が、行き過ぎて悪い立川流と同じ言動となるのは残念至極。

私の楽しんだ安上がりの開会式を、北野たけし御大が酷評していたそうで。
同じ世界(決してそれほど広い意味でなく)にいる、が〜まるちょばのパフォーマンスに敬意のひとつも払えない点で、終わっている。
すでに現役ともいえない、安い文化人がなにを言おうと構わないが、この意見に頼る人もたくさんいるのでしょうな。
演出自体を上から批判するマウンティング大好き人間なのに、マウンティングする根拠は人からもらうという。

オリンピックが開会前、ここまで悪者にされたのは、政権とコロナのせいだけでもないと思っている。
他人の顔色をうかがい、長いものに巻かれて生きてきた日本人に、遅ればせながら自我が芽生えてきた。
いろいろ積み重なった自我が噴き出している、そんな背景があると思う。
一方的に感動を押し付け、安易な一体感を醸成しようとする国家の企みに、耐えられない人が多くなってきたのだ。
スポーツ選手は自己のパフォーマンスの発露のために日々頑張っている。選手と、選手に近いところにいすぎると、この構造の変化がわからない。

世間はもはや、スポーツ選手が聖人だなどとも誰も信じていない。
スポーツ選手も、薬物はやるし下半身はめちゃくちゃだし。相撲取りだけがめちゃくちゃなのではない。
でたらめな人たちは、もはや国民の精神的代表ではない。単にイヤなヤツまでいる。
今までフィクションで覆っていたが、現代では隠せない。
私だって、もともと自我が強すぎるぐらいの人間だ。感動の押し売りなんて初めから拒否モード。
プロ野球は好きだが、価値観押し付けの王者、甲子園も決して好きじゃない。
2019年のラグビーは、押し付けもなくとても幸せでしたね。

オリンピックについては、「感動をありがとう」どころか、「あなたも、自分が日本人でよかったと思いますね!」という愛国心の押し付けまである。
報道側も、押し付け強めモードではもうダメである。
私は、自分自身を日ごろから愛国心が強い人間だと思っていない。左翼嫌いは、決して愛国心から来るものではないのだ。
分裂した日本を見て、「この国はもうダメだ」なんてつぶやいている私。いや、これは意外と愛国心がまだ残っている証拠かもしれないが。

ともかくそんなひねくれ男は、オリンピックに背を向け、寄席にでも行くのがよさそうな気がする。
立川流の広小路亭でも行けば、実質共産党員の噺家立川談四楼師匠が、「トヨタが五輪CMを抜けて四輪に専念する」という、大爆笑のギャグを聴かせてくれる。

そんな私が、柔道にやたら感動してしまいました。
どこからこの感動がやってくるのか。誰かに押し付けられたものではない。それは確か。
金メダルという結果だけではない。女子の渡名喜選手の敗退、銀メダルにもググっと来てしまった。
フリーのライターで生きていて、人とも逢わない、そしてそれをよしとする私が、柔道を通して世界とつながった気すらした。
本当だ。
「日本人でよかった」というような、得てして中身のない抽象的概念とはちょっと違う。
他国の人が頑張っているのを見てもグっと来てしまう。私は日本なので、まず日本とつながるが。

オリンピック反対にこだわるのは個人の自由。
国家が信用できない人たちが、国家イベントを粗末にする、それはとても自然なこと。
理屈っぽい私には、国家を信用しないことと、その当然の帰結としてイベントを粗末にすること、どちらについても直接的にはなにも言えない。
ネトウヨの多用する「反日」なんて、私には絶対に使えないレッテル。

オリンピックの失敗を、反対派が望むのも自然である。引っ込みのつかない野党もまた。
だが、当然のような理念を日々実行していく中で、悪いが大事なものを確実に喪うと思う。
国家プロジェクトの失敗を期待することで、その人は確実に日々何物でもない、透明な存在になっていく。
透明になって精神的に日本人であることを捨てても、地球人にはなれない。もちろんナニ人にもなれない。
もちろん、自覚してそうしている人もいるだろうが。
自分の中から湧いてくる感動には、目をつぶらないほうがいいと思うのです。

古典芸能のはしくれである落語だって、先人からの遺産を勝手にリセットしてしまえば、それはもはや芸能でもなんでもなくなってしまう。
落語から味わう感動だってまた、いきなり湧いてくるものではない。

今日はユーモアもなく、無駄に力説してしまいましてすみません。

作成者: でっち定吉

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