柳家喬太郎「母恋くらげ」

「新作落語を取り戻せ」という大テーマを、ここしばらく私は持っている。
最近、落語の耳が古典落語に寄り気味だ。円楽党によく行くようになったためもあるだろう。
どういう落語を好んで聴くかは人の自由。古典落語中心に聴いたとして一体なんの問題があるのか? なにも問題はない。ただ、寂しくなるのである。

というわけで圧倒的な新作落語を聴きに行こうと池袋に出向き、主任・林家彦いち師の新作落語「愛宕川」のおかげで、私の落語耳を修正できた。池袋は、すばらしい新作落語がよく掛かる寄席。
もっとも、私に新作落語を取り戻させてくれた噺はもうひとつある。これは現場で聴いたものではなく、私の録画コレクションから。
落語のブログを書いているような人は、現場でしか落語は聴かないようだ。TV・ラジオの落語の大好きな私は例外なのかもしれない。
現場に行っているからこそ、TVの落語が面白く聴けるのだと私は思っていますがね。
ともかくここ三週間くらい、コレクションの柳家喬太郎師の落語をずっと聴いていた。喬太郎師だけでBDに3枚VTRがある。
私は、落語について疑問が生じたときは、必ず喬太郎師に戻ることにしているのである。
好きな噺家さんはたくさんいるが、私にとっての落語の基本は、なぜかこの極めてユニークな師匠にあるわけだ。

新作人情噺の「孫、帰る」「ハワイの雪」「ハンバークができるまで」など、何度も聴いてる噺にも、改めて感動した。
新作でもうひとつ、喬太郎師ならではの傑作が「母恋くらげ」。絵本にまでなっている。
爆笑ものだが、これもまた一種の人情噺だと思っている。
喬太郎師の新作人情噺には、爆笑は必須。師匠・さん喬にも「ハワイの雪」について「明るくやったほうがしんみりするよ」とアドバイスもらったそうな。

「母恋くらげ」は「みかん」「電気」「水たまり」のお題で作った三題噺だそうだ。三題噺からできたことが意識されなくなったとき、新作落語は名作となっている。
BS11の過去の番組「柳家喬太郎のようこそ芸賓館」の一席から。2015年1月13日放送。
落語教育委員会特集である。ようこそ芸賓館はスタジオ録画していたが、この回は新宿文化センター小ホールでの公開収録。
落語教育委員会の創立メンバー、柳家喜多八師匠はこの翌年に亡くなった。

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人さまのブログによると、末広余一会で喬太郎師、日大内田前監督のモノマネ披露したそうな。
OBとしては激しく嫌な事件に違いないが、笑いはどんなときでも救いになりますね。
顔も似ていると評判だとか。最初から世に悪役として登場したあの人について、キョン師に似ているなんて思ったことはなかったが、言われてみると白髪以外にも、似てないこともない。

喬太郎師の新作落語は、古典落語とまったくアプローチが違い、古典落語にない独特の空気が流れている。
母恋くらげに漂う、ウェットな情感と文学性。これは古典落語では決して味わえない要素。
新作のほうが上だなんていう気は毛頭ないけども、新作嫌いの人には決して味わえない領域が、落語にあることは確かだ。
喬太郎師の新作大ネタには、文学性が溢れている。江戸川乱歩や小泉八雲からネタを持ってくるのも、師の感性が文学と通底しているからだ。
こんな作品を作るのは、他には三遊亭円丈師しかいるまい。

一見、古典落語の世界と距離を置いているような落語を世に送り出す喬太郎師だが、いっぽうで師は、古典落語の世界にどっぷりつかり続けてきた人でもある。
三遊亭円丈師は、計画的に古典落語で基礎を固めてから、予定通りに違う方向に進出していった。いっぽう、完全二刀流の喬太郎師は、古典落語の世界が好きで好きで仕方ないようで、その世界と距離を置くことは一切ないまま、古典落語のカバーしない領域にも進出している。
喬太郎師、自身の落語を「ファミレス」だという。和洋なんでも揃っていて、そこそこの味だからだそうだ。
もちろん、謙遜して言っている言葉を、その通りに受け取ってはいけない。確かに料理の種類は多いが、決してファミレスではない。喬太郎師のハンバーグはファミレスの味ではなく、専門店の味である。ハンバーグだけではない、あらゆる料理が専門店レベルなのである。
有名な専門店だけでフードコートを作ったら喬太郎落語になる。専門店を集めたフードコートは、現実に成り立つ。

爆笑マクラは、本編とまったく関係ない。喬太郎師はこういうことがよくある。
ちなみに、古典落語でも同じようなマクラの場合が多々ある。長い持ち時間で短い噺を掛けるときに、マクラに注力する。喬太郎マクラファンという人もいるだろう。
マクラを聴いて本編を想像することはできない。だが、面白マクラを振るときは、本編のほうをさらに強化してくる方針のようである。だから、マクラの印象だけで帰すことは決してないだろう。
昔の、みんなが休んでいた正月の話。「おせちもいいけどカレーもね」など。
元日は師匠さん橋宅に集合する。大師匠小さん存命時には、さん喬宅に早朝日の出前に集まって、朝8時半くらいに小さん宅に行っていた。
「どんなふうな一年になるんでしょうか。またよろしくどうぞと思うところでございます。それではお後、喜多八師匠と交代します」と言って頭を下げる。これはさん喬師リスペクトギャグだ。

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マクラはお弁当屋さんのおにぎりの話。立ち食いそばやのミニカレーセットの話へと。
そしてコロッケそばの話。コロッケそばを語り出すと一席になってしまうのでさらっと。
ようやくそこから、アクアショップの話。脈絡ないマクラは、やっと本編とつながった。
熱帯魚でなく、金魚などの庶民的な魚を販売するアクアショップの張り紙には「鯉こくできます」。
本編とつながったのに、またお店つながりで脱線。スムーズに続いているので、思い出したわけでもないらしい。そのままだと、母恋くらげに進むにはグロだからという配慮なのだろう。
仮称「磯ヶ谷米店」の話。
ちなみに「磯ヶ谷」は、磯ヶ谷好章という、BS11制作局長の名前から来ているようだ。
それがなぜわかったかというと、喬太郎師、「梅津忠兵衛」のスタジオ収録の際にもこの名前を使っていて、スタッフから忍び笑いが漏れていたからである。
落語の中に名前を出すのだから、喬太郎師はきっとこの人に好意を持っていたのだろうし、番組の質的にもその貢献度は高かったと推測される。
そのお名前は、グダグダだった後番組、先日終わった「イレブン寄席」には見られない。

話がそれたが、今はなき「磯ヶ谷米店」(仮称)の月替わりポスターはこんなの。5月なら、

青い空に白い雲
仲良く泳ぐこいのぼり
五月晴れの空 みどりの風
こんなさわやかな空気の中に あなたの笑顔があれば
磯ヶ谷米店

力を入れて、普通の米屋のポスターは「コシヒカリ入荷」「プラッシーあります」だろうと。プラッシー、客に大ウケ。
脳の奥で引っ掛かっているちょっとした情報をすくいあげてきてウケを取るのが上手いのが、喬太郎師と春風亭一之輔師だ。
続いて、磯ヶ谷米店の6月のポスター。

うっとうしい季節
じめじめした空気 どんよりした空
明日は雨かな 晴れるかな
てるてる坊主ムダにならないといいな
こんな梅雨の時のこの空気の中でも あなたの笑顔があれば
磯ヶ谷米店

実在の米店の月替わりポスターを、喬太郎師がいちいち覚えているはずがなくて、雰囲気だけから新たに作り直したに違いない。詩人喬太郎。
これもまた、一之輔師が「かぼちゃ屋」で出していた与太郎ポエムと共通点がある。
言葉に敏感な人なら、ポエムくらいはすぐ作れるらしい。
こういうのは、雑俳など古典落語の世界にも通じますね。

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楽しい喬太郎師のマクラでちょっと気になるのが、TVに出たときによくやる「ここカットね」ネタ。
落語研究会の放送でも、師はのべつやっている。VTRをまとめて視ていると、まあ多い。
それでも、一度なら面白いけど、同じ噺の中で二度もこれをやると、さすがにちょっとしつこい。本編に入ってからも追加で入れていて、計三回。
ギャグでウケる噺家さんも、つい得意のパターンに持ち込んでしまうということがある。落語メタフィクション化の第一人者喬太郎師らしいギャグなのだが、やりすぎるとマンネリ、ちょいとした落とし穴だ。
ちなみに一之輔師もこの手のTV局ネタが好き。売れっ子だからね。
あと、喬太郎師は咳が多い。この師匠、ずっと咳が多くて、メタボなお腹ともども体が心配になる。喫煙なんて論外だと思うよ。
私は60代になり、さらに70代、80代になった喬太郎師がぜひ聴きたいのだ。この師匠、年齢を重ねたときに噺家としてどうあるべきか、ありたいかという構想を、必ず持っているはずだ。
入れ込むギャグの質・量がどう変化していっても構わない。

池袋西口にあった、たぬきうどんを出し、ジョッキでアイスコーヒーを出す喫茶店の話。
それからようやくアクアショップに戻って、クラゲを飼うとリラクゼーションになると。
爆笑マクラ14分、ようやく終わり。ちなみに本編は13分。
私も延々と楽しいマクラに触れてしまったが、決してマクラがメインというわけではない。本編の印象のほうがはるかに強く残る。この点、人間国宝とは違う。

You Tubeでも「母恋くらげ」は聴けるが、「ようこそ芸賓館」で流れていたこのバージョンはかなりパワーアップしていると思う。
海の中で手をくねくねさせるタコが最初の登場人物。
「おはようございます。タコです。柳家権太楼じゃありません」。
タコの声は、権太楼師の落語でよく聴く間抜けな登場人物の声だ。代書の客であるとか、小言幸兵衛の豆腐屋、不動坊のチンドン屋とか。疝気の虫もそう。
喬太郎師の新作落語は、まずキャラから生まれるのではなかろうか。強烈なキャラが立っていて、そのキャラを活躍させるために噺本編が成り立っているのではないかな。
「諜報員メアリー」「ハンバーグができるまで」、それから「喜劇駅前結社」など、そういった新作がいくつか思い浮かぶ。さらに言うなら師の古典にも、そういう印象を受けるところがある。
喬太郎師、権太楼師の落語を袖で聴き、たちまちタコの仕草までセットで思い浮かんだのでは。
そして、イカや、鉄火で江戸前のアナゴ。ヒラメと、左右対称のカレイなど、ゆかいな所作の生き物が次々登場する。

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「母恋くらげ」も、一見破壊的な新作。しかし上下を振って所作で演じ分けるという、落語のルールからは決して外れないのだ。
この噺にはないが、寝そべったりなどルールを外れるときは、喬太郎師は必ずギャグとしてする。
古典落語と新作落語でまったくスタイルを変えているように見える師匠だが、実のところはちゃんと同じ落語体系の上に乗っている。
師は、愛する落語を完全に破壊することはない。
師匠・さん喬は、このあたりをごく正当に評価しているに違いない。

喬太郎師、タコを演じながら、「古典落語じゃなくてすみません」。
なんだか新作をやるときは、シャレではあるけどいつも謝っている印象がある。ファンの大部分は新作に喜んでいるのに違いないので、なにか落語界に対する照れがあるのだろうか。
喬太郎新作、やりたがる同業者もたくさんいるのに。まあ、師の謙虚さの表れと解釈する。

愉快な海の登場人物たちの最後に、主人公であるクラゲのくらのすけが登場。小さいので、お母さんクラゲに連れられ、初めて海に出てきたのだ。
橘家蔵之助師匠と関係あるのかないのか。ラストシーンでは「橘家亀蔵」というカメが出てくる(圓十郎師の旧名)。
くねくねしたクラゲの所作も、また面白い。

そして場面がガラッと変わり、遠足に行く小学4年生の観光バスのシーン。
落語の世界にもいろいろあるけども、多いのは「日常の世界と非日常の登場人物」または「非日常の世界と日常の登場人物」の組み合わせ。
つまり、日常の世界には喋る動物や幽霊が出てくる。聴き手の等身大の登場人物だと、地獄や異世界を巡ったりする。
ちなみに、「日常の世界と日常の登場人物」という組み合わせの新作落語も多数あるけども、私はあまり好きじゃない。新作にはどこかに日常からの飛躍が必要のようだ。このあたり、東京の新作落語家は、かなり自覚的に作っているように思う。
この点、古典落語は有利。隠居と八っつぁんの会話は、すでに現代から見たとき違う世界にあるから。

だからといって、飛躍が過ぎて、海の中の海の生物という、「非日常の世界と非日常の登場人物」の組み合わせで噺を進めるとなると、客がついていけなくなる恐れがある。
このような世界の落語を作る際は、日常を混ぜ込むのが必須。世界にフックが掛かって、客が理解しやすいものになる。
おでんの中の世界と、外の日常とを対比させる、柳家小ゑん師の名作「ぐつぐつ」もそうだ。

だから母恋くらげにおいても、遠足のバスという日常が登場する。日常かつハレの日という、上手い作り。
そして、海の中のくらのすけと、人間の子供たちとを対比させる。
元が三題噺だから、どのみちミカンと水たまりをつなげないといけないということはある。そうした制約はともかく喬太郎師、きっと非日常の世界をわかりやすく描いてみたかったのだと推察する。

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「青春サイクリング」「野球小僧」」「僕は泣いちっち」など昔の歌を熱唱するバスガイドの歌ギャグ。それに対して、今の歌しか知らない小学生。
落語によくある、コミュニケーションギャップを広げたギャグである。だが、悪態をつき合いながら実に楽しそうなのも落語らしいではないですか。
バス内の騒ぎをよそに、奈良漬けの食べ過ぎで二日酔いのシニカル小学生、中村くん。酔い覚ましにみかんを食べ、皮を窓の外から放り投げる。
そのみかんの皮を、強い波で水たまりにひとり取り残されたクラゲのくらのすけが、母だと思い、必死で守る。

喬太郎師は、噺家の中でも特異な、声の使い分けをおこなう人である。
一般的には、男女も年齢も区別せず、同じように喋って演じ分けるほうがいいとされている中、かなり喬太郎師は声を変える。一見異端の芸のように思えるが、決して無意味にこんなことをしているわけではない。
特に、子供の声は変えてくる。だから、バスの中の「知らないよバカ」「殺すわよ」などという殺伐とした会話が、ギャグとしてとても楽しく響く。
そして大波で陸の水たまりにひとり取り残されたくらのすけのさみしさを、しっかり演じる喬太郎師。

地のセリフで、それまでのストーリーで隠していた、くらのすけが電気クラゲであることを明かす。
生徒が投げたみかんの皮を、教育上拾いに来る先生に対して、母を守るため必死で放電するくらのすけ。

「みかんの皮と母クラゲを間違えるなんて話に無理がある」という自己解説を含め、ギャグが終始続く。
客を楽しませるサービスに溢れた、この母恋くらげを、擬人化と強烈キャラの面白落語だと捉えて楽しむのはまったく間違っていないだろう。
だが、ギャグにまみれたこの噺から切れ目なく響いてくるのは、言葉にならないしみじみした情感である。だから人情噺だと、文学だと思うのだ。芯に極めてピュアなものを持っている喬太郎師。
幼いながら、母を守って闘うくらのすけ。噺の重大なポイントではあるが、サービスを忘れない喬太郎師、しんみりし過ぎないよう強調することは避ける。この点ハンバーグやハワイと同様。
だが、喬太郎師の好きなファンにはその情感がしっかり届くし、いつまでも余韻を残す。

この噺もサゲは取って付けたもの。それでいいのだ。
タコの所作でもって退場する、最後までサービスを緩めない喬太郎師でありました。

ひとつの噺について6日間も書いてしまいました。それだけ「母恋くらげ」は中身の詰まった噺です。
そして、新作落語はやっぱり面白い。
もちろん古典落語も面白い。先日の「浅草お茶の間寄席」で、喬太郎師、「お節徳三郎」を通しで、わずか30分でやっていた。ダイジェスト感などまるでないこの高座もまた、相当衝撃でした。

作成者: でっち定吉

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