落語と偏見(上)

世間は毎日騒がしい。
まあそれだけ、オリンピックが良くも悪くも、日常に爪痕を残していったということだろう。
爪痕のひとつ、サンモニ事件からはいろいろ触発される。
特に今回は、いろいろあってアスリートの奮闘が2~5割増しぐらいになっている。ケチをつければ世間は怒る。
やらかしたこと自体、頑迷な老人の偏見に基づくものである。それを謝罪するのに今度はフリーアナにさせるという。
これ自体見事なコントである。リアルコントには、ネタはかなわない。
当ブログ用に「たかし・いさお」の老害漫才台本でも書こうかと思ったのだが、現実のすごさにはかなわない。
偏見を股からぶら下げ、誇示しながら歩いている老害に、一定の需要のあった最後の時代なのだろう、現代は。
立川志らくは、張本勲を参考にしているかどうかは知らないが、この路線で生きていこうとしているようである。この先どんどんシュリンクしていく分野だが、好きにすればよかろう。
5年後は志らくはまだコメンテーターを務めているだろうが、本業のほうは見るも無残な状態になっている(本人は認めない)と推測される。
以前も書いたが、独演会しかできない噺家になったら、もう終わり。落語界から、価値を認められなくなったらそこまでだ。
そして浅知恵の志らくは、クラファンにケチをつけて、自分で外堀を埋めてしまった。

さて今日は、サンモニ事件をヒントに落語界の「偏見」を扱ってみます。
ちなみに前述の志らくへの私の感想もまた、偏見の一種ではある。
当ブログ内の検索順位では「志らく」が常に1位。このブログにも、志らくを叩く私に快哉を送るという、サンモニ縮小版の構図があるわけだ。
構図に対する自覚ぐらいは持っているけど。

まず女流への偏見。
女流が少なかった時代に、道を切り開いていった人たちは大変だったろう。
歌る多、菊千代、そして露の都といったパイオニアの師匠がた。そして、桂あやめ師。
現在はもう、露骨な偏見は少ないはず。
林家つる子、春風亭一花といった二ツ目は、ウデ自体を評価されている。
数が増えて、女流の落語に客が違和感を持たなくなったのは大きい。
東京では、講談界が先に女流メインになった。その際には、「女性は落語より講談が向いている」という、まことしやかな論評が存在したのである。たかだか10年ぐらい昔のことに過ぎない。
結果的には、落語もまた、性別に関係ない芸ではあった。登場人物をひとりで描き分けるというお約束に、女性の語りも違和感なくハマるのである。
あとは男も女も、上手いか下手かだけ。
このたびのセクハラ事件が、今後の女性の入門にどんな影響を与えるだろうか。これは非常に心配している。
そういうことのない業界だと私も思っていたからなあ。

新作落語への偏見も、すっかり払拭された。
新作派は寄席のバラエティ化に貢献するのでよく顔付けされる。客も新作を楽しんでいる。
「オレは古典落語しか認めない」なんて人は、たぶんいない。贔屓の落語会だけに行っている人はわからないが。
ただ、この先ちょっと心配もしている。
落語ファンが新作落語になんの偏見も持たなくなったということは、新作落語を楽しむ年齢層も上がってしまったということ。
それでも落語に新規参入してくるファンはいるが、若い人は古典落語のほうが好きなんじゃないかなという気がしている。
今の年寄りは、古臭いものに対する、若い時分の偏見を一度払拭したうえで、落語に来ている。まわりくどい道だ。
いっぽう若い人は、古い芸能に対する偏見を持つ前に、ストレートに落語に到達している。
古いものを軽蔑する視点を最初から持っていないのだ。
そうなると、古典落語のアンチテーゼとしての新作落語を楽しむ必要がないかもしれない。そんな気がする。
古典落語の世界に浸り、楽しい冒険が味わえるのに、なんで現代社会の落語? 古臭いねという。
円丈師より古い、かつての芸協新作はやがて時代とズレて古びていき、顧みられなくなった。
現在の新作落語は盛況を迎えているが、いっぽうですでに古くなりかけているかもしれない。
どれだけ、新作落語家に危機感があるかはわからない。
とにかくできることはただひとつ、闘い続けることである。三遊亭白鳥師のごとく。

続きます。

 
 

作成者: でっち定吉

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