落語と偏見(下)

次に、土手組への偏見。
「土手組」は差別用語であり、気軽に使っていいものではないので念のため。寄席に出られない立川流、円楽党を揶揄する言葉。
この偏見は、特に出て行かれた落語協会の噺家に長らくあるし、ファンにもある。
いっぽうで、これを払拭する動きが現在急速に広がりつつある。芸協客員の円楽師が日本中で落語まつりを開催することで。
円楽党に関していえば、「寄席に出られない」はとうにフィクションである。
自前の寄席は2軒もある。前座さんの修業にも最適だし、両国には他団体のゲストも出る。
さらに兼好・萬橘・王楽の各師匠は、たびたび末広亭の芸協の芝居に出ている。芸協所属でも、ここまで出番のない人はたくさんいる。
だから問題は立川流のほう。立川流にも末広亭の枠はあるのだけど、出られる人は少ない。
立川流の寄席も細々と開かれているが、もともと寄席を否定する団体のやることなので、中途半端な席。
そんな中で立川流の若手、すっかりみすぼらしい存在になってしまった。才人もいるけども、寄席がないハンデをもろに食らっている(あいにく、その自覚はない様子)。
このまま朽ちていくのか、気の利いた人から他派に合流していくのか。
これは私の偏見? 私自身の偏見は否定しないが、立川流自身は、朽ちかけていることを否定できる? 単に現状認識の欠けたメンバーが多そうだ。

2年前、落語関係者からいきなり湧いて出たのが、「人情噺」に対する偏見。ちょっとびっくりしましたね。
吉川潮先生である。この先生も、張本勲や河村たかしと同じ病気に掛かっているのか。
老害という名の不治の病。
小泉進次郎はその後短い期間で、代議士としてのキャリアをすっかり失速させてしまったが、当人のことはまあ、いい。

東京かわら版の小泉進次郎

人情噺は東京の落語界では、圓朝以来ずっと最上位にあったもの。
近年になってこれを滑稽噺の下に置きたい人の気持ちもわからないではない。
だが、私自身の人情噺に対する愛着は、この2年でますます強くなってきたではないか。別に、滑稽噺の上に置いて欲しいとか、そういうことではない。
そもそも人情噺という概念、滑稽噺と真逆の位置づけにあるわけではない。だからこそ、人情噺の冒頭に笑いをたっぷり入れたりするのではないか。
人情噺は、魂がほとばしる噺(丁稚の定義)である。
柳家喬太郎師など、代表作はみな人情噺だと思う。古典新作問わず。
たとえば。

  • 心眼
  • 宮戸川(通し)
  • 孫、帰る
  • ハンバーグができるまで
  • ハワイの雪
  • 母恋くらげ
  • 東京タワー・ラブストーリー
  • 芝カマ

どこが人情噺? と思われそうなものも混じっているけれども、人情噺とは「魂がほとばしる噺」なのである。
自分自身の定義だから、証明には使えませんが。

寄席好きの落語ファンの持つ偏見を一つ挙げてみる。落語協会を贔屓し、芸術協会を誹謗するもの。
これに、「ゲキョハラ」という名を与えてみよう。
当ブログのコメント欄にも、こんな内容を投稿してきた馬鹿がいる。承認しなかったが。
落語協会を持ち上げること自体は、わからないではない。落語協会の師匠は確かに素晴らしい人が多い。
でも、芸協だっていいですよ。色物も充実しているし。
寄席四場における、落語協会と芸術協会の芝居の比率はおおむね2:1。
寄席好きの人は、3回に1回芸協に行けば、バランスが取れている。
正直、私もそこまで芸協比率は高くない。でも、いつもバランスを保とうと思っています。
先日聴きにいった、遊馬・今輔二人会はよかったですね。寄席のような、寄席でないような席だけども。

最後に、上方落語への偏見。
当ブログも、上方落語をたまに出すが、ほぼ個別のアクセスが落ちる。「おなじはなし寄席」は例外。
私は、東京と上方の「違い」に着目することはそれほどない。別種の芸能ではないのである。
違いがあっても、演者の個性の違いで吸収されてしまう程度のものだ。見台を使うかどうかなんて、さしたる差ではない。
「上方落語が嫌い」と言っている人は、実は「上方落語家の誰それが嫌い」なのである。本当は。これは別に構わない。
東京と同様、あらゆるスタイルが上方にもあるわけだから、ひとり聴いて全部を拒否するなど、愚かである。

いろいろな偏見を見てきました。
私にも、小三治に対する偏見とか、修正する気のないものもありますけどね。

(上)に戻る

 

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。