東京かわら版の小泉進次郎

中村仲蔵/電話の遊び

「小泉進次郎」が落語雑誌に登場 評論家曰く“彼は落語の本質がわかってないね”
(デイリー新潮)

カチンと来た記事。
政治家は公人。どうメディアで扱おうが自由だし、当人も批判に甘んじないといけない。
だが、公人小泉進次郎をdisるために、「落語に対する個人の向き合い方」自体を批判している点で、かなり雑な、嫌な感じを受けた。
そもそも、間違った落語の聴き方なんてものがあるとすれば、やたら拍手をするとか電話を鳴らすとか、マナー違反に属するものだけだと思う。

「東京かわら版」は私も定期購読している。
新潮記事の元ネタである、小泉進次郎が登場していた巻頭インタビューは、届いた際にさらっと読んだ。
へえ、東京かわら版、ずいぶん大物呼んできたなという感想。
それでも東京かわら版なんて、新潮からすれば吹けば飛ぶ泡沫メディア。読んでる人間なんて実に限られている。
要約するとこんな内容。

  • 中村仲蔵が好きで、落語は人間愛に溢れているから好きで、落語の後の日本酒が好き。
  • さん喬師に人間愛を感じ、権太楼師の酒飲みの所作を好む。
  • マクラで振られる政治ネタを、客席で聴いている政治家小泉がいて、これが民主主義の形だなと。

「進次郎が落語ファンで嬉しい」とも、「落語をダシに民主主義を語るな」でも、「庶民派アピールいやらしいぞ」でも、なんでも感想は言える。それはいいだろうよ。
私自身の感想は特にないのだが、少なくとも、ネガティブな印象は受けていない。的外れなこと言っているわけでもなく。

この東京かわら版の記事から「進次郎は落語の本質がわかってない」という結論を引きずり出すメディアには腰を抜かした。
為政者の立場として批判されるなら仕方ないとして、ひとりの落語ファンとして批判を受けなくちゃいけないの?
なんだよ「本質」って。貴様こそわかってんのか。

いきなり記事の冒頭が、<「堅すぎるぞ、進次郎!」と思った落語ファンは少なくないのではないか>だもんな。
堅いか堅くないかでいうと、全体のトーン、誰が読んでも柔らかすぎるぐらい柔らかい。
というより、これだって、東京かわら版の編集次第だ。
新潮の記事、この時点ですでに引く。大手の記者が、中小会社のプロの仕事をdisってるってことだもんな。

署名のないこの記事で批判しているポイントは、「中村仲蔵を何度も聴きたいというのは落語ファンのセンスとしてどうか」だ。
いいじゃないか別に。誰だって好きな演目も嫌いな演目もあるよ。
ネタ出しの会だったら、仲蔵をやるというのでわざわざ聴きに行ったっていいだろう。
中村仲蔵、私だって好きだ。
「自分の力で地位をつかみ取ったが、そこでおごることなく新たな試練に立ち向かい、運の良さと工夫で見事突破した」というのが仲蔵のテーマ。
落語の中でも、時代を問わず普遍的なテーマだ。嫌らしさなどかけらもない。
芝浜やら文七やら浜野矩随やら、ある種の封建的な独自体系の上に成り立った噺を好きなファンのことを許せないというのなら、それはまあ、百歩譲ってわかる。
でも時代を問わない「中村仲蔵」が好きだというセンス、ごく普通には褒められてしかるべきと思う。
好きだと告白するのには、実に適切な演目だ。

吉川潮先生の批判の仕方も変だ。
仲蔵が聴きたいなら講談へ行け?
進次郎が「講釈は嫌いだが落語は聴く」と言ってるならかろうじて批判も成り立つだろうが。
だいたい、落語と講談という、寄席で仲良く一緒に掛けられているものを別扱いしている時点でなんのこっちゃである。まあ、吉川先生は講談の掛かる芸協の寄席なんて認めてないのかもしれないが。

吉川先生はもともと別に嫌いではない。このインタビューに対しても、なんらかの照れがあるのだと思う。それを変な形で引き延ばされたというのはあるだろう。
だけど結局、ひとりの若い落語ファンを消費期限切れのジジイが偉そうに叩いている姿しか浮かび上がらない。
そしてさらにいやらしいのは、吉川先生が談志の「業の肯定」を印籠として、権威として持ち出してきていること。
新潮の記者は、談志を印籠にする作家を印籠にして出しているから、二重に嫌らしい。
私など談志のこの哲学自体、理解はしつつも半分否定している。
落語は「肯定」自体を最初からしていないと思っている。むしろ、進次郎のかわら版のコメント「人間愛」のほうを、私も強く感じる。

あと、滑稽噺のほうが人情噺より上だという価値観はわかる。だけど今、これを言ってるのって、談志の系統じゃない。もっぱら小三治師。
私は小三治師の落語論もまるで信用していないので、滑稽噺が上だという価値観にも少々疑問を抱いている。

私は人情噺、好きだなあ。別に滑稽噺より上だなんて言いたいのではない。
人情噺を、「笑いの少ない噺」と捉えるのが、まず違う。笑いなんて、入れようと思えばたくさん入れられる。
滑稽噺との違いは、笑いの量じゃないのだ。
人情噺とは、聴き手の魂を揺すぶる落語なのである。
そして、五街道雲助師や春風亭一朝師の仲蔵など、十分に聴き手の魂を揺すぶってくれるものと思う。


中村仲蔵/稽古屋/淀五郎/芝居の喧嘩

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作成者: でっち定吉

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