鼻濁音について

1年半前に書いた記事にコメントをいただいたのがヒントになって、久々に鼻濁音について書いてみようかなと。
元の記事は、人間国宝・柳家小三治師の鼻濁音に対するこだわりを皮肉ったものです。
鼻濁音とは、文頭以外に出てくるガギグゲゴが、鼻に通る「ンガ」になるのが正しい姿。「こてんらくご」「だいかぐら」というときのガ行。半濁音の丸を付けて表記したりするけども、スマートフォンだと表示されないので使うの止めました。
鼻濁音を身につけていない私は、ああ、この師匠鼻濁音がきれいだなと思って聴くことはそれほどない。
だが、柳家喬太郎師の「道灌」を先日繰り返し聴いているうちに、柳家喬太郎師の八っつぁんで、鼻濁音に気が付いた。喬太郎師のことを、鼻濁音使いと認識したことはなかったので、驚き感心した次第。
自分の耳が肥えてきたことを実感する瞬間は嬉しい。
だがここから単純に、「やっぱり鼻濁音のできる噺家さんは違う!」という方向に進んでしまうと、これはかなり違う気がする。

現代でも、鼻濁音が落語の重要なアイテムであることはまったく否定しない。江戸の世界を再現してみせるにあたり、雰囲気の再現は大事だ。
だが、東京の日常会話から滅びかけている鼻濁音に、必要以上にこだわる意味があるのだろうか。
古典落語において、もっとも大事なことはなにか。それは噺の演出の仕方だと思う。噺を作り上げる必要があるのは、新作落語だけではない。古典落語でも全く同じ。
鼻濁音だけ得意げに披露したとして、それが一体なんぼのもんじゃということ。まあ、得意げに披露している噺家などひとりも知らないけど。

鼻濁音、調べていくとすぐ迷宮に迷い込む。
うちにも本があるのだけど、結局小三治師の「落語家論」に行きつくだけ。
なんだ結局、落語に欠かせないアイテムといいつつ、書物一冊から出ている文化に過ぎないのか? もちろん、そんなことがないことくらいわかっている。ただ、ベテラン師匠は本当に鼻濁音がなくなることを惜しんでいるのか?
言葉は世代を経るうちにどんどん変わるもの。「アンちゃん、その発音おかしくないかい」なんて言うベテラン噺家がそんなにいるのだろうか。
江戸の空気は確かに大事だが、その空気は江戸から引き継いだ部分にしかないのか?
だいたい、現在の小三治師の噺を聴いて、鼻濁音が明瞭に聴こえてくるかというと、全然そうでもない。人間国宝、人に言うことと自分でやることとが大きく違う人なのは、当ブログでも散々書いてきたから繰り返さない。

高座に江戸の風を吹かせてくれる噺家さん、綺麗な鼻濁音だと感じつつ、よくよく聴いてみるとそうでもない人も結構いる。
こちらにヒアリング能力がないから聴こえないのかもしれない点はお断りしておく。
鼻濁音っぽく聴こえるのは、別にガギグゲゴだけではない。全体を鼻に抜いて喋ると、非常にそれっぽくなる。特にダ行をンダっぽく語ると、(別に東北っぽくはなく)江戸っぽくなる。
こういう噺家さんの発声は魅力的である。この魅力的な発声が、イコール鼻濁音かというとそうでもない。
よく考えれば当然なのだが、噺家さんは声を使う商売であって、鼻濁音を使う商売ではないのだ。

柳家小せん師は、「それっぽいが鼻濁音ではない」とかつて思っていた。でも、絶対音感の持ち主(らしい)で、上方弁も上手い人。使えないのもおかしいなと思い、耳を澄ませて聴くと、明確な鼻濁音だった。
入船亭扇辰師は明確な鼻濁音。本来濁音の「楽屋」というときの「ガ」すら鼻濁音に聴こえた。
橘家文蔵師は、鼻濁音がむしろ似合わない人かと思っていたが、明確な鼻濁音。
古今亭文菊師もよく聴くと、かなり明瞭な鼻濁音。この人は、鼻濁音の印象のほうが全体より強い。

古今亭菊之丞師は、若いのに鼻濁音を操ると以前から認識していた。だが、ガギグゲゴだけに着目してもあまり意味がないと気づいた。部分ではなく、全体的に鼻に抜ける喋り方のほうが、落語の世界観構築にはるかに貢献している。ガ行は、実はそれほど目立たない。
隅田川馬石師もよく似ている。この人は兵庫出身だが、細かいところがどうではなくて、多くの噺家以上に江戸っ子っぽい。
話題の新真打、三遊亭好の助師も何気に鼻濁音を使っている。

ここまでは、鼻濁音がよく聴き取れる人。
三遊亭遊雀師は、独特の節回しが非常に鼻濁音っぽい。だが、個々の鼻濁音はよくわからない。
会津出身の三遊亭兼好師からも、鼻濁音のイメージは伝わってくるのだが、個々の発音は決してそうでもない。
柳亭左龍師は、ラ行で舌を廻すのが上手くて、この点で非常に江戸っ子っぽい。それでもやっぱり、鼻濁音のほうは、目立たない。ごく弱いので、鼻濁音か濁音か識別できない。
三遊亭遊馬師も、ごく弱い。ちょっと濁音とは違うかなというもの。
そして、桃月庵白酒師になると、全然鼻濁音は聞き取れない。この人は鹿児島だ。そもそも白酒師の面白古典落語に鼻濁音は必要だろうか?
言葉に大変厳しかった先代文治の元で育った桂文治師からも、鼻濁音はよく聞き取れない。この人は大分出身。まあ、繊細な言葉使いで勝負する人ではない。

新作の人は、古典落語をやっても鼻濁音を使わない。
白鳥、百栄、天どん。新作派とはすでにいえないだろうが萬橘。
最近は古典の評判が高い三遊亭天どん師、鼻濁音を一切使わない。まあ、高座で平気で人間国宝を揶揄する凄い人だから、むしろ使って欲しくない。
だけど、「鼻濁音のできない天どんは古典落語をやるな」なんて言うか?

鼻濁音のよさは否定しないけども、鼻濁音ができたほうが偉いのかというとそうではない。鼻濁音にこだわるのは、人間国宝の信奉者だけに任せたい。
だいたい、鼻濁音が使えるかに着目して落語聴くほど野暮なものはない。実際にやってみてください。アホらしさがよくわかります。
落語界、もっと大事なものが無数にある。
だけど私、今後生の高座で鼻濁音に着目して落語を聴いてしまいそうな気がするなあ。早く忘れよう。

作成者: でっち定吉

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