先日、長々とサゲについて書いてみた。
現代にもシンパのいる桂枝雀のサゲ分類を否定して、新たな分類を始めるという、思い切った行動に出てみた。
枝雀ご本人がご存命なら、否定する論理も含め、反応があったことをきっと喜んでくれたと思うけど。
当ブログを読んで下さる方の感想も、「なんのこっちゃ」だったかもしれない。まあ、別にいいのです。
「サゲの分類なんかしたってしょうがないだろう」という感想も、立派な反応です。
分類してみて、なんらかの結論が出ればよし。出なくても、分類の結果としてそれがわかればよし。
さて、長々書いた後で、今さらひとつ気が付いた、重大なことがある。
枝雀のサゲ分類を否定してみるにあたって、見逃していた点があった。
枝雀の考える「サゲ」とは、言葉のことをいうのではない。枝雀のサゲは、ストーリーをひっくり返す(あるいは納得させる)行動のことなのだ。だから、大げさな身振り手振りまで含めてサゲを構築している。
落語の歴史を改めて考えるなら、東西の違いなどによるものではなく、枝雀落語のサゲは明らかに異端である。サゲまで面白さを追求しても、面白いかなあなんて思う。
現代流行っている面白古典落語にも、新作落語にも、枝雀のようなサゲを付ける人はいない。むしろ、そのようなサゲに、落語そのものが耐えられないのではないか。
面白落語を徹底的に追求した枝雀本人も、自身を正統派だとは思っていたはずがない。しかし知的な遊びとしてサゲの分類を展開するにあたり、自分だけが思うサゲの形を念頭に置いたのは、大きな誤りではなかったか。
サゲの定義を拡大するという取り組みを、(実は)ひとり始めていたのに、自分ではその行為に気づかないまま、自分だけのサゲをスタンダードなものとして、分類を展開していたのではないか。
枝雀のサゲ分類への違和感が、また一つ腑に落ちた。
「愛宕山」のサゲは、フレーズとしては「忘れてきた」である。しかし枝雀は、一八の心境になって、忘れてきてしまったという思いを込めてひっくり返る。
もともとサゲというものをフレーズでは捉えていなかったらしい枝雀は、サゲの定義を、普通とはまったく異なる形で理解していた。落語の冗談めいたお話が続いて、最後にもう一回ストーリーをひっくり返したり、なあるほどと納得させたりする「展開」がサゲであると、恐らく定義しているのだ。
しかしながら枝雀、自分がサゲを変えたと認識していない。枝雀にとってのサゲの内容は、「一八がショックを受けるさま」のことなので、変えた自覚すら持っていないのだ。
実際のところ、本来はフレーズでできている落語のサゲを、行為に変えてしまったのである。その変容させたサゲに基づき、せっせと分類していたのでは。
枝雀分類を見ておかしいと感じる部分が多々ある。「謎解き」「ドンデン」「合わせ」「へん」という四分類のうち、視点の位置が、統一を標榜していながら実際には二種類ある点など。これはブログに書いた。
その違和感の原因がまたひとつわかった。枝雀が分類していたのはきっと、サゲを演ずる際の、噺の前半からつながってきて醸成された、自分のテンションのありようだったのだ。
だから矛盾はまったく起こしていなかったのだ。テンションが4つの分類に分けられるということに気づいたときの感動は大きかったろう。
だが枝雀がどう考えていたにせよ、これは多くの噺から引き出せる、サゲの性質とは明らかに違う。サゲとはもっとずっと適当なもので、だからこそ噺を強引に締める役割を担っている。
だが結果的に枝雀のサゲの捉え方は、落語について人々が、誤解も含めて抱くイメージとしてはぴったりのものだった。だからシンパがまだいる。
枝雀のサゲ分類が、落語界の新たなスタンダードにならなかった理由もよくわかる。枝雀が示したサゲ自体、どの噺家のイメージにもないものだったのだ。
定義付けが統一されずに使われた言葉から、新たな文化は生まれない。
私も、落語の有名なサゲの中に、フレーズによるものと、ストーリー展開によるものとの二種類があることにはかろうじて気づいた。そのため、丁稚オリジナルサゲ分類の中において、その二種類は識別してみた。
だが識別をしたのは、フレーズによるものこそが本来のサゲだという認識があるからなのだ。改めて東西ともども、落語のサゲとはフレーズだと思う。
フレーズの細かい部分が、人により少々異なっていることはある。だが、ある程度統一されたフレーズがある中においては、「サゲが違う」「サゲを変えた」とは言われない。聴き手の心中に与える効果は同じ。
細かいところが多少違っても、人の心象に与える統一された言葉こそ、フレーズ。
見事なサゲのフレーズは、噺から独立していきやすいことにも気づいた。いっぽうで、展開だけでできたサゲ(例として宿屋仇)が、噺から離れていくことはない。
とってつけたサゲが多いことも、改めて腑に落ちる。フレーズに過ぎないし、フレーズであるからこそ噺を離れて独自のイメージを与えられたりもする。
よくできたフレーズには魂が宿る。だが、魂の宿りかたもいろいろだ。落語を支配するような魂は、一部の噺を除いて宿らない。
枝雀のような異端の人が、分類という、帰納法的な行為を始めてはいけない。
分類は、なるべくピュアな状態から始めないと。サゲを分類するのなら、異端である噺の展開についてではなく、「忘れてきた」というフレーズだけからスタートしなければならなかったのである。
自分ひとりで落語の範囲を無自覚に拡大してしまったために、病む羽目になってしまったのではないかと思う。